先に君を愛したなら
契約
セシルの携帯電話が鳴ったのは夜だった。男が地に伏し、泣き喚きながら決意を固めたその日から数日経っているが、当のセシルは知るよしもない。セシルは自室のベッドに置いていた携帯電話を拾い上げ、通知を確認した。一通のメールが届いている。それを開いた瞬間、セシルの頬は一気に青ざめた。辺りを見渡しても、見慣れた部屋があるばかりだ。
「何故……」
セシルが再度画面を見る。そこにはダイニングで口付けるセシルと春歌の写真が表示されていた。盗撮なことに間違いはない。それだけでも悍ましいが、何より問題なのがセシルと春歌の部屋の中を撮影されていることだ。セシルが慌てて立ち上がった瞬間、再度電話が鳴った。そこには見たこともない番号が表示されている。手の震えを抑えながらセシルは通話ボタンを押した。
「はい、愛島です」
やあ、と応じた声で、セシルはすぐさま男の存在を思い出した。
「何故アナタがこの番号を知っているのですか」
「最近の探偵は優秀でね、番号を調べることなど造作もないらしい。さてと、そんなことより君と二人で話したいんだ。送ったメールは見てくれたかな」
「……はい」
「それなら話は早いね。いますぐ私の部屋に来なさい。誰にも連絡せずに、一人でね」
セシルは油断なく辺りを見渡した。彼は男に従う気はなく、事務所に助力を求めるつもりでいた。だが、盗撮は隠しカメラを使って行われたはずだ。電話を切った直後に事務所に連絡をしても、隠しカメラ越しに見られる可能性がある。
「分かりました。アナタの居場所を教えてください」
ひとまずマンションの外に出なければならない。そう考えたセシルだったが、男は笑いを噛み殺し切れていない声で答えた。
「このマンションの最上階までおいで。今は私がここの持ち主なんだ」
セシルは無言で電話を切って部屋を出た。そのまままっすぐにエレベーターホールへと向かう。辺りには誰もいないが、これ見よがしに監視カメラがセシルを睨んでいた。これでは事務所に連絡を取っても気付かれてしまうだろう。
マンションの家主が数ヶ月前に変わったことはセシルも知っていたが、あの男と気付けなかった。おそらく息の掛かった会社を経由し、偽名で買い上げたに違いない。その動機を考えるだけで、セシルは肌が粟立つのを抑えきれなかった。行く先々の現場で、遠くからセシルを見据えていた男。あの粘ついた視線を思い出しながら、セシルはエレベーターに乗り込んだ。
扉が開くと、男はにこやかに両手を広げてセシルを迎えた。
「いらっしゃい。待っていたよ、ずっと前からね」
「……っやめてください」
男はセシルの腰に手を添えて奥へと促す。セシルが反射的に手を振り払うと、男は肩をすくめて応接間へと歩いていった。応接間には資金に物を言わせた調度品類が所狭しと並べられてあり、その中央に石造りのテーブルと椅子が用意されている。
「座って待っていてよ。飲み物は何がいいかな」
「必要ありません」
「そうか。じゃあ本題に入ろう」
男はセシルの正面の席に座る。一瞬だけ、男の目が潤む。それは昔にセシルと食事をした日を思い出してのことだった。セシルはそんな日のことなど思い出しもせず、不快感を滲ませながら男を睨んだ。
「セシル、君には私の物になってほしいんだ」
商談でもするかのように、朗らかにその要求は放たれた。それを聞くセシルの表情は強張ったままだ。
「もし、断ればどうなりますか」
「ははっ、断りたいって顔をしているね。その時は私の手元にある〝君たち〟の情報を全部公開するだけだよ」
男は持っていた写真の一部をテーブルに広げた。そこには男が盗撮したセシルと春歌の姿がはっきりと映っている。中には寝室での行為を映したものもあり、セシルは羞恥と怒りに頬を染めた。その表情が気に入ったのか、男は椅子から立ち上がるとセシルの側に歩み寄った。
「私は知ってるよ。君の一番大切な人の情報を全部知ってる。それを渡す相手だっていくらでもいるんだ」
セシルは目を見開いたまま顔を上げた。男はその顔を見ながら得意げに言葉を続ける。
「ゴシップ雑誌に売りつけてやってもいいがね……ちょっと平凡すぎるか。ああ、そうだ。知り合いがちょうど日本人の女の子を欲しがっていてね。あいつは趣味が合わないが金だけは持っているからなぁ。この前なんて買ったばかりの子の手をいきなり切り落としてね。もし、そんなことになったらピアノどころの話じゃ……」
「そんなことはさせない! ワタシが許しません!」
セシルは叩き付けるように声をあげた。だが、その力強い宣言を、男は失笑した。
「ずいぶんと勇ましいことだ。では私の物になってくれるね?」
「……それは」
一瞬言葉に詰まったセシルの頭を、男は慈しむように撫でた。セシルは即座にその手を払いのけたが、男は特に気にも留めていないようだった。
「祖国と事務所と君自身の名誉、そして最愛の恋人を犠牲にしても自分の自由が欲しいと言うなら私に止める術はないが……」
男はそう言いながら、セシルの肩を片手で促すように叩く。
「君は愛情深くて賢い人だ。そうだろう?」
その言葉に、セシルは静かに目を伏せた。それで決まりだった。
「ここにサインしてもらおうか」
男がセシルに差し出したのは一枚の契約書だった。セシルは血の気が失せた顔でその内容を見る。そこには、男の命令に全て従うことをセシルに強制する文言が記されていた。こんなものに法的な効力などあるはずがない。ただ男がセシルを弄ぶ為の戯れに過ぎないことをセシルは理解していた。
だがそれでも心は枷を付けられたかのように重くなる。セシルは一瞬躊躇った後、ペンを握って自身の名前を書き込んだ。
男は契約書を受け取ると、記されたセシルの名前を愛おしげに指先でなぞる。手の中にある紙切れは、求め続けていたものを男が手に入れた証明だった。
「折角だからさ、アイドルとしてのサインも書いてくれないか」
そう言うと、男はセシルの手に契約書を突き返した。セシルは鋭く男を睨んだが、男は悠々した態度を崩さない。既に契約は結ばれているのだ。セシルは男の奴隷に成り下がり、命令を拒むことなど出来ない。
「……分かりました」
セシルは震える手でペンを再度握ると、いつものサインを契約書に書いた。返された紙を男は満足げに眺める。
「嬉しいな。ずっと欲しかったんだよ、君のサイン」
「そうですか」
不快感の隠せていないセシルの最低限の返事へ、男は朗らかに頷いた。
「ありがとう。これからよろしく、セシル」
セシルの頬へ男はそっと手を添えると、顔を上げさせた。整った顔が男の手の中にある。その額へと、男は誓うように口付けた。
***
「じゃあ部屋に案内するよ。これからはそこで過ごしてもらうからね」
「……」
「返事は?」
「…………はい」
「おいで」
男はセシルの手を引いて立ち上がらせると、彼の腰を抱いて歩き始めた。セシルがそれを拒むことはなかった。もう拒む自由はセシルに残されていなかった。
長い廊下の一番奥にある部屋へと男はセシルを連れ込んだ。他の部屋以上に豪奢な家具で飾りたてられたその場所の中央にはテーブルと一対の椅子が置かれていた。テーブルの上には皿が並べられており、キャンドルが灯されている。
「素敵だろう。君の為に作らせた部屋だ」
「……ワタシに何を求めているのですか」
「まずは食事を取ろう。もっとセシルのことが知りたいんだ」
男は椅子を引くとセシルを座らせた。男が向かいの椅子に腰掛けると、部屋のドアが開き、前菜が運ばれてきた。いつしか部屋の隅に集まっていた楽団がシャンソンを奏で始めた瞬間、セシルは目の前の光景がかつての日の再現であることに気付いた。
「思い出してくれたかい?」
男がそう声をかけると、セシルの顔から見る間に血の気が引いていく。男は内心落胆していた。料理も、テーブルも、皿も、楽団も、灯りも、この場所は何もかもセシルと男が初めて会食したレストランを再現している。
だからこそ、相違点がはっきりと分かってしまう。途切れる話題、混乱と困惑に満ちた眼差し、引き攣る表情、セシルはあの日とは違うのだ。セシルが男を見て微笑むことも、男が知らない世界について生き生きと話してくれることもない。
それが当然だと理解していても、目の前のセシルの様子は変わってしまった関係を改めて男に突きつけていた。
「結局、私は取り返しの付かないことばかりしているんだな……」
男はそう呟くと、目の前の皿をテーブルから払い落とした。皿が割れ、テリーヌが床に飛び散る。音に驚いた楽団が演奏を止めた。セシルは身を固くしたまま男を見据える。
「……何故、こんなことをするのですか?」
男は少し考え込むようなそぶりを見せた後、目を細めた。
「私は多分セシルを愛しているんだ。多分、と使ったのは、恥ずかしながらこんな気持ちは初めてでね。君と一緒なら私は人生を愛せると、あの日に心から思えたんだ」
「愛しているのなら尚更、どうして」
「君は私を拒んだだろう。それどころか私以外の人間と愛を育む始末だ」
春歌のことを話していると気づき、セシルは咄嗟に口を閉ざした。その様を見て男は笑った。
「私は誰よりもセシルを愛しているんだ。嗚呼! この想いを形に出来たらなぁ……! 大きさを見せてあげられるのに。どれだけ大きな愛が君を包み込んでいるか……! それなのに、出会った順番が違っただけで君の愛を独占している人間がいる。私が先に出会っていればセシルの隣には私がいたはずだ。そのはずなんだ!……だから正した。やっと君を手に入れた。でも契約に縛られるのも本来の形じゃないんだ。私は、セシルに愛されたいんだよ。……こんなところかな。分かってくれたかい?」
セシルは首を振ることしか出来なかった。目の前の男が何を言っているのか、途中から理解することをセシルは拒んだ。こんな悍ましい執着の対象に選ばれたことへの恐怖心だけが広がっていく。そして何よりもセシルが恐れたのは、この男の怒りが恋人に向くことだった。
「せめて、あの日をやり直せたら、と思ったんだが、全ては無駄だった。セシル、こちらに来なさい」
次回は7月中に更新予定です。
backNextメッセージは文字まで、同一IPアドレスからの送信は一日回まで