先に君を愛したなら
愛の理解
次の日、私は無人駅のホームにいた。始発で移動してきて、ベンチに座り込んだまま数時間経っていた。日はもうすっかり昇っている。セシル達はおそらく次の電車でここに到着するはずだ。
マンションから着いてきても良かったが、尾行に気付かれるリスクがあることと、何より私は恐ろしかった。セシルと春歌の睦み合いなど映像で何度も見ていたが、自分の目で直に見てしまうことが怖かった。何故かは分からない。だがその恐怖に負けて、私は寂びたベンチで煙草を吹かしているのだった。
目の前に電車が止まり、ドアが開く。十メートルほど離れたドアから、男女の二人連れが降りてきた。深く帽子を被り、変装していたがすぐに分かった。セシルだ。隣にいるのは春歌だろう。二人は少しだけ距離を保ったまま、足早にホームを歩いていく。
私は煙草の火を消し、ゆっくりと後を追った。平日の昼間だ。辺りには誰もいない。気付かれないように、かなり離れて尾行しても見失うことはなかった。
改札を通り、閑散とした住宅街を抜けて、二人は森へと進んでいく。駅前からバスも出ているはずだが、そう遠くないので歩いてしまうのだろう。
歩を進めていくに連れて、少し離れていたセシルと春歌の間の距離は次第に縮まっていった。その度に私は胸が苦しくなる。歩調が合い、目線が絡み合い、指先が触れる。ぽつり、ぽつりと言葉を交わしている。その内容は私にはぎりぎり聞き取ることが出来ない。セシルの言葉に、春歌がにっこりと微笑む。その笑顔を見て、セシルが目を細めた瞬間、私は耐えきれずに角を曲がった。二人とは別ルートを選ぶことになってしまうが、目的の花畑にはたどり着ける。私は内心の衝動に引きずられるようにして走った。現場で実際にセシルを見たことなど数え切れないほどある。だが、現場であんな顔は見たことがなかった。いや、私は知っている。セシルは彼女と二人きりでいる時は、あんな表情をするのだ。愛しさを詰め込んだ美しい表情を――。
足場の悪い道を幾度も転びながら、私は一気に森を駆け抜けた。全身泥まみれになったが、そんなことはどうでも良かった。足がもつれる。体がふらつく。そして突然、目の前が開けた。そこは、二人の目的地だと直感的に分かった。
……白い花だ。曇りのない白の花が一面に広がっている。日が差す中で花々が風に揺れていた。見渡す限りの白が波のように揺れるその情景は、私に広大な海原を想起させた。ほんの一瞬、私は内心の苦悶も忘れ、眼前の光景に見惚れた。
「見てください! 美しいでしょう」
「はい……とても綺麗……」
その瞬間、耳に飛び込んできた声で私は我に返った。近づいてくる声の主が誰なのかは言うまでもない。そうだ、セシルはこの光景を恋人と分かち合いたかったのだ。
私は改めて目の前に零れ落ちる花々を見た。この光景をセシルが愛したのだ。そう考えると、より美しく思えた。セシルはいつも私の世界を美しくしてくれる。セシルを通して世界を見ることが出来るなら、きっと私は生きる喜びを手にすることが出来るのだ。
深く息を吸って、吐く。動揺するなんて私らしくもない。きっと何かの気の迷いだ。私は声のする方へ歩き始めた。ひとまずセシルに声をかけよう。集めた盗撮データはいい脅しのネタになる筈だ。隷属させ、多少時間をかければ、セシルもきっと私を愛するようになるに決まっている。
舗装されたレンガ道の先に、人影が見える。間違いない、セシルと春歌だ。ゆるやかにカーブした道を曲がった瞬間、私はこの二人を正面から初めて見ることに気付いた。
花弁が風に舞う中で、セシルと春歌は手を繋いで寄り添い合っていた。駅で見かけた時のような、二人の間の距離など無い。彼等の細い指はしっかりと絡みあっている。春歌の耳元でセシルは何か囁き、春歌は頬を紅潮させる。その姿を見てセシルは華やかに笑った。ここは二人だけの世界だった。
声が出ない。脳内で渦巻いていた脅し文句も消し飛んでしまった。私は無様に口を開けたまま、睦み合う恋人達を見つめていた。目の前の恋人達は満ち足りていて、完璧で、誰も入る余地などなかった。狂おしいほどに舞う白い花とセシルと春歌の微笑みだけが私の視界を覆っていく。ああ、先ほど逃げたのは正しい判断だった。この光景を見るのを少しだけ先送り出来たのだから。私は溢れる涙を止めることも、崩れ落ちる体を支えることも出来なかった。そのまま地面に伏す私を花が覆い隠しているらしい。二人に気付かれることはなかった。セシルに見つかる前に、私は情けなくしゃくり上げながら踵を返した。木々のある場所まで這った後立ち上がり、そのまま無我夢中で走る。私は足を止めなかった。信じられないほどの早さで私は走った。苦しくて肺が割れそうだった。そんな中でも視界が滲んで、揺れて、流れていく。涙の中で万華鏡のようにセシルと春歌の姿が映し出される。羨ましくて、眩しくて、暖かい情景。そして、その美しさに呼応するように私の中でははっきりとした決意が生まれていった。どれほど罪深いことをしようとしているか分かっていた。この涙はそれを責める良心が流したものに違いない。
それでも、これほど心が揺れ動かされても、尚、諦めきれない。滾る想いが強すぎる。私はセシルを愛している。誰よりもきっと愛している。考えるだけで悍ましい。私はきっと地獄行きだ。だが、それでも構わないとはっきりと思えた。セシルが恋人へと向ける優しくも純粋な想い、彼の喜び、生きる意味。その愛が、どうしても欲しかった。
男より春歌ちゃんの方がセシルを愛しています。
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