先に君を愛したなら

募る想い

 それからの私は天国と地獄を同時に味わった。  セシルは私が初めて見つけた生きる意味だった。彼の歌声を聞いて、穏やかな微笑を見て、存在を感じるだけで生きていて良かったと心から思えた。  だが、その後に訪れるのは虚無だ。絶対に彼を私の物にすることは出来ない。私の瞳だけを覗き込んで、優しく微笑みかけてくれることはない。そう考えるだけで気が狂いそうだった。  それでも私は懲りずに何度もセシルの姿を目に焼き付けていた。テレビで、配信で、DVDで、金で買った関係者の席で、どこから見ても彼はいつも美しかった。生きる喜びに溢れていた。あまりにも眩しく、綺麗だ。私はどうしてもセシルを諦められなかった。全てを失っても構わない。セシルを、生きていることの意味を、私は手にしたかったのだ。  だが、最早セシルに私が近づくことは叶わなかった。シャイニング事務所はセシルからあの日の話を聞いたらしい。仕事こそ請け負ってくれたものの、必ず二人以上のアイドルやタレントを起用するように圧力を掛けてきた。そのせいでセシルに近づこうとしても、くっついてきた連中がそれとなく私の邪魔をした。マネージャーやスタッフもセシルの側を離れようとはしなかった。それでも人をかき分けようとする私の涙ぐましい足掻きを、セシルは哀れみと軽蔑を込めた眼差しで見ていた。  ――ああ、こんな屈辱を受けても、私は嬉しかったのだ。あの玉虫色の瞳に私の姿が映っているだけでも、これ以上ないほどの歓喜が貫く。惚れた弱みだ。だが、やはりセシルこそが私の腐りきった世界に降り立つ天の使いなのだ。存在を感じる度に、彼は私に人生の意味を教えてくれた。  会えない時は財力とコネを駆使して、セシルの情報をかき集めた。過去の雑誌やライブDVDを貪るように見た。デビューしたばかりの初々しい出演映像を何度も何度も再生した。SNSで話していた店で休日を潰した。昨日食べていた弁当の空箱を抱きしめた。  だが、それで満たされるのは一瞬だけだ。集められる情報の数々は、セシルの過ごした日々の抜け殻でしかない。私の喜びたり得ない。セシルを、彼の喜びを手中に収めてこそ、初めて私は自分の人生を歩めるのに。  そんなある日のことだった。雇っていた探偵の一人が息せき切って私のオフィスに飛び込んできたのだ。探偵が取り出した写真に映っていたのは、マンションのエントランスだ。そしてそこには小さくセシルが映り込んでいる――女と一緒に。他に誰もいないエントランスの片隅で、セシルは女を抱きしめていた。 「……どういうことだ」  口に出した声が震えていることが自分でも分かった。探偵は息を整えながら状況を説明してくれた。  探偵が潜入していたのはセシルが住んでいるマンションだった。昨日の深夜、エントランスの物陰で帰宅してきたセシルを見張っていた時にこの写真を撮ることに成功したらしい。セシルは女を抱きしめた後、二人でエレベーターに入っていったそうだ。  その女もマンションに住んでいるらしい。どこの部屋に住んでいるのかは分からないと探偵は濁していたが、セシルと同居しているのは明白だった。  追加で提出された女の顔写真を見た時、私ははっきりと思い出した。忘れもしない、私が初めてセシルと出会った日に彼の隣にいた女だ。女の名前は七海春歌、セシル専属の作曲家だった。  資料を読み、説明を聞くにつれて、私は息が苦しくなった。あのステージが何度もフラッシュバックする。あの夢のようなステージ、互いに引き立て合う音楽とパフォーマンス、あれはセシルと春歌が二人で作り上げた物だったのだ。私がセシルのステージに救われたのと同じように、春歌の作り上げた音楽がセシルをより輝かせているのだろう。  だが、私と違うのは、セシルと春歌の関係が双方向的なことだった。片方がより輝けば、もう片方も光を増す。互いに救いあっている。相手を想う気持ちがどちらにもある。……つまりそれは愛というものだろう。それこそがあの輝きの原動力だ。  私は彼等の愛のおこぼれを受けていただけだったのだ。それで救われた気になっていた。セシルはもう既に深い繋がりを私以外の人間と得ているというのに。彼の輝きを、喜びを、私の物にすることは出来ないのだ。私が真の意味で喜びを見いだし、救われることは決してないのだ。  思わず机に拳を叩き付けた。傍らに立っていた探偵は身を縮めたがそんなことはどうでもいい。私は机に伏し、子供のように泣いた。羨ましい。初めて心の底から欲しいと思える存在を見つけたのに、何故こんな苦難が襲うのか。少し出会った順番が違うだけなのに、何故彼の隣にいるのが私ではないのか。私はこんなにもセシルを愛しているのに、どうして! ***  それから数ヶ月、悩んだ末に私は大きな買い物をした。買った物は都心に佇むマンションで、シャイニング事務所に近く、住宅街からも離れていることから、多くの芸能人が住んでいる。セシルもその一人だった。  私は私財の大半を投入し、セシルと春歌が住んでいるマンションの権利を買い上げたのだ。私は管理者としてマンションに堂々と入れるようになった。  そこから先は簡単な話だ。探偵を引き入れることで、より詳細にセシルの情報を集めることが出来る。いつ二人が部屋を空けるのかを把握することも出来る。その隙を狙って監視カメラと盗聴器を部屋に仕掛けることも、あっけないほど簡単に出来てしまった。  マンションの最上階は私の自室だ。誰もいない広い部屋で、私は浅く呼吸をしながら、送られてきた初めてのデータを開こうとしていた。マウスを持つ手の震えが止まらない。カーソルを再生ソフトに合わせて、僅かに逡巡した後、私はデータを開いた。  始めに聞こえたのは音だった。ピアノだ。ピアノが鳴っている。優美な旋律が踊っていた。その後を追うようにして聞き慣れた歌声が響く。セシルの声だった。  カメラから送られてくる映像にもピントが合い、部屋の様子が映し出される。そこは一つの完成された世界だった。セシルはピアノの隣に立ち、歌い続けている。現場で見るよりも、彼は柔らかな笑顔を浮かべていた。ピアノの前に座っているのは春歌だ。彼女はピアノを弾きながら、セシルの歌声に耳を傾けているようだった。流れる二つの旋律は絡み合いながら、曲という一つの美しい形を作り上げていく。私は息をすることも忘れ、音楽に身を委ねていた。 『やはりアナタと音楽を紡ぐ時間は素晴らしいですね』 『わたしも楽しかったです。お仕事以外でセシルさんとこんな時間を過ごせるのも久しぶりですから』  曲が終わり、恋人達の会話が聞こえてきたことで私は現実へと引き戻された。そうだ、これは私の為のコンサートではない。私は観客ではなく、秘密を強引に暴いている部外者に過ぎない。そんな苦い想いを噛み直している間も、二人の睦言は続いていく。春歌の言葉にセシルは無邪気に笑い、セシルの囁く甘い言葉に春歌は頬を染める。そしてまた新しい曲が歌われていく。一曲終わるごとに二人の間の距離は縮まり、いつしかセシルの手は春歌の手をそっと握っていた。それが合図なのだろうか、春歌はセシルの首に空いた腕を回す。その仕草は何度も繰り返された故の慣れと、それでも消えない初々しい愛情が満ちていると見ているだけでも理解出来た。二人の顔が近づいていく。目を逸らしたい。何も見たくないのに画面を見ることを止められない。  だが、恋人達の唇が重なった時、私は咄嗟に画面を閉じた。深く息を吐きながら両手で顔を覆った瞬間、頬が濡れていることに気付いた。 「うう゛~っ、う……ぐすっ……ぅ……あぁー……」  汚らしい声を上げながら、私は泣き喚いた。誰もいない部屋に私の声だけが反響する。  垣間見た世界は、これまで私が知らない熱意と愛情に満ちていた。だが、その世界に私はいないのだ。それが何より虚しかった。  それから毎日、私は送られてくるデータを確認し続けた。傷つくことは分かっていても、止めることが出来なかった。映っているのは私が何よりも欲しいものだったからだ。人生への情熱、生きることへの喜びがそこには全て詰まっていた。  囁かれる睦言、暖かな食卓、交わる視線、奏でられる音楽、カメラから零れてくる二人の暮らしは目映いばかりの愛に満ちていた。私は二人を見つめ続けた。長期ロケから戻って春歌から抱きしめられるセシルの姿も、たまのオフに二人で料理をする姿も、CDの発売を祝う姿も、私は見ていた。  当然、セシルと春歌がどう愛し合っているのかも目に焼き付けた。元々スキンシップは随分と多い二人だから、夜もそれはそれは情熱的に睦み合っていた。本来、恋人達だけの美しい秘密となる事柄を暴く度に、私は仄暗い興奮を抱いた。抱きしめて首筋に口付けることが誘いの合図であることも、セシルが少しだけ耳が弱いことも、春歌の腿にほくろが一つあることも、私は全て知っている。そんな事実の一つ一つがあの美しい世界と私を繋げてくれるような気がした。抱きしめ合って互いに服を脱がせ合う二人の映像を見ながら、私もベルトを外す。普段露出が少ないセシルの瑞々しい肌が露わになっていく。そして彼の表情! 情欲と愛情が入り交じった顔はこれ以上ないほど扇情的だった。アップで撮れないことがいつも悔しい。だが、それほど興奮しているのにセシルは丁寧に愛撫をするのだ。春歌が反応を返す度に、セシルは優しく口付ける。春歌も拙いながらセシルに深く口付ける。互いの愛情が入り交じり、その度に興奮も深まっていく。相手と深く理解し合いながら行うセックスはこれほど違うのかと、私は興味深く見つめていた。恋人達の興奮が高まるに連れて、私も怒張する陰茎を一緒に扱く。 『ハルカっ……ハルカ……、愛しています……』  セシルは深く口付けて、彼女の名前を何度も呼ぶ。それに呼応するように私はセシルの名前を何度も呼んだ。 「セシル……っセシル……愛してる……私の方がっずっと愛してる……セシル……セシルっセシルっああ゛ぁああぁっ!」  セシルが呼んでいるのは私の名前ではない。私の想いは決して届かないと見せつけられていても、叫ばずにはいられなかった。  セシルが絶頂を迎えるのと同時に、私の陰茎からも精液が噴き出す。タイミングを合わせることなど簡単に出来るほど、私はこの行為を繰り返してきた。直後の気怠さで息を吐きながら、画面を見つめていると虚しさで死にたくなる。ずり落ちたヘッドホンからは恋人達の甘い睦言が響く。それを聞きながら私は暫く虚脱状態に陥っていた。 『えっ、セシルさん。明日の午後はオフなんですか?』  奇遇だね、セシル。私も休みだよ。 『はい。入っていた仕事が別日になりました』  ああ、あるよなぁ。そういう急な仕事のバラシ。 『わぁ……! じゃあ一緒にいられますね』 『はい!』  この嬉しそうな声。この声は春歌と話している時にしか聞けないトーンだ。愛らしいな。 『ハルカ。折角のオフなのですから、たまには外で過ごしませんか』 『素敵です……けど、大丈夫でしょうか』 『大丈夫ですよ。ほとんど人がいない場所まで行きましょう。この前撮影で向かった森がとても美しかったのです。花々が溢れるあの場所をアナタに見せたい』 『……わたしも見てみたいです。セシルさんと』 『決まりですね』  セシルと春歌は弾けるように笑う。その声はまるで学生同士がはしゃいでいるかのような若さに溢れていた。それから二人は明日の計画を楽しく練り始めた。私も聞いていて胸が躍った。漏れ聞こえてくる情報を繋ぎ合わせると、二人がどこに向かうのかは推察出来た。  電車を何本も乗り継いだ先にある無人駅、そのすぐ近くの森がセシルと春歌が向かう先らしい。いつの間にか穏やかな寝息だけが響いていた。おやすみとセシルに告げて、私はヘッドホンを外した。  私も明日は休みだ。そしてセシルは明日、人気のない場所にいく。――直接セシルに会うチャンスじゃないのか? そう考えるだけでも手が震えた。決して手に入らない幸福を見せつけられる日々に別れを告げてもいい筈だ。私だって喜びを手にしてもいい筈だ。救われていい筈なんだ。贅沢は言わない。私は許されたい。再びセシルと言葉を交わして生きる喜びを手にしたい。彼から愛されたい。それだけだ。  おかしいじゃないか。私は誰よりもセシルを愛している。こんなリスクを冒してでも見つめ続けることを選ぶほどに。それなのに私はセシルから拒絶された。こんなことは許されない。決して許してはいけない。セシルを、生きる喜びを独占するのはこの私だけでいい。  寒々と広い部屋の中で、私は震える手を握りしめた。これほど明日を待ち望んだ夜は無かった。

次で序章は終わります。次はもう少し早く更新できる筈です。

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