先に君を愛したなら
初恋
一番大切なものは愛だ。そんなことを信じている人間全てを私はかつて馬鹿にしていた。でも、今ならはっきりと理解できる。一番大切なものは愛だ。
私の家はとても裕福だった。その中で末息子として育った私は溺愛され、望んで手に入らない物などなかった。欲しい玩具も、食べたい物も、学歴も、金も、仕事も、友人も、女も、地位も、名声も、全てが用意されていた。家が運営している会社はこれ以上無く安定していて、あくせく働く必要もない。数十年の間で、この世の快楽は大体味わっていた。
だが、私が満たされることはなかった。何でも思い通りになることがこれほど退屈だなんて世間の人間は知らない。上に立っているからこそ、擦り寄る人間や世界の暗部もよく見える。そんな腐った連中を思うがまま動かして何が面白いのか。そう思い始めると仕事も遊びも全てが霞んで見える。
どうしようもない満たされなさと退屈を抱えたまま、私は生きていくしかない。そう思っていた。
だが、日常が変わる時は一瞬だ。ある日、私は部下の一人からテレビ局の見学を提案された。私の家がスポンサーをしている音楽番組で大規模な収録が行われるらしい。大衆音楽に触れるなんて久しぶりだ。最近のアーティストはよく知らないが、暇つぶし程度にはなることを期待しながら現場に向かった。
私達がスタジオに着いた時、収録は既に佳境に入っていた。大音量でギターを掻き鳴らすロックバンドが叫び、華やかな衣装の女性アイドルグループが流し目を送る。溢れる歓声と興奮。そこに渦巻く熱気は、あまりにも私の人生と関係がなくて、なんとなく神経を逆撫でした。
「くだらないな」
眉間に皺を寄せて呟くと、部下達が真っ青になるのが見えた。それに小気味よさを感じながら踵を返した瞬間、曲の前奏が耳に飛び込んできた。その瞬間、周囲の雑音は消えて、世界は私とステージだけになった。
振り返ると褐色肌の青年が静かにステージに佇んでいる。青年は息を深く吸うと、音楽に合わせて歌い始める。それと同時に彼の脚が力強くステップを踏んでいた。そこからはよく覚えていない。ただ目が離せなかった。生き生きと歌う彼からは、眩しいばかりの力を感じた。曲は青年の輝きに寄り添うように展開し、次々の彼の魅力を引き出す。時に真摯に、時に無邪気に、時には優美な色香が漂う。伸びやかな歌声が私を、そして会場を全て包み込み、魅了していた。パフォーマンスが終わる寸前、彼は私の方を見て笑った。それはほんの一瞬出来事だった。でも、生きる喜びに溢れたその表情は強く私の心に焼き付いた。
私が呆然としている間に、曲が終わる。辺りは割れんばかりの拍手と歓声に満ちて、耳が痛くなるほどだった。
「あれは誰だ……?」
そう呟くと、すぐに近くの部下が耳打ちをした。
「愛島セシル、シャイニング事務所のアイドルです」
「人気はあるのか?」
「非常に。芸歴こそ短いですが、デビューしてからの活躍は類が無いと言われています。〝トップアイドル〟と呼んでも差し支えないかと」
「トップアイドル、か」
私はそう呟きながら、ステージの上で手を振るセシルを見ていた。長い夢から覚めたような気がする。気怠い心地よさのようなものが私の心に入り込んでいた。あんな人間もいるのだと素直に思えた。
こんな感情を抱くのは初めてだった。暖かくて、眩しい。この気持ちはなんだろう。
その正体を知りたくて、私はステージから降りたセシルの元へ歩み寄った。彼は流れる汗を拭い、スタッフに労いやら何やらを話していた。
「愛島セシルさんだね?」
「はい!」
セシルは私へとにこやかに微笑みかける。近くで見ると顔貌の良さがよく分かり、余計に私の胸中はざわついた。
セシルの隣に立っていた女性スタッフが、私の素性を耳打ちする。セシルは軽く頷くと、改めて頭を下げた。
「先ほどのステージを拝見したよ。本当に素晴らしいものだった」
「ありがとうございます」
そう言いながらセシルは顔を輝かせた。本当に誇らしいのだろう。表情にさえライトの煌めきが残っているようだった。その姿に導かれるように、自然と私は口を開いた。
「どうだろう、是非君から今日のステージについて詳しく話を聞きたいんだ。今夜は空いているかな」
「誘って頂けて嬉しいです! この収録が今日最後の仕事なので、終わり次第連絡します」
「構わないよ、見学しながらゆっくり待たせてもらおう。また後で」
「Yes、よろしくお願いします」
――やった。快諾だ。久しぶりに自分の恵まれた立場に感謝した。
ステージで歌を披露し終わっても、他のアーティストにコメントをしたり、映像を確認したりとセシルには山のように仕事が残っているらしかった。
私は二時間待った。人生で一番長い二時間だった。
収録が終わったセシルから声を掛けられ、私達はすぐさま部下に手配させたレストランへと向かった。
「人目は心配しなくて良い。貸し切っているからね」
移動中の車内でそう声を掛けると、セシルはやや驚いた様子だった。この急な会食でそこまでされると思っていなかったのだろう。だが、それだけ私は本気だった。
レストランに着くとすぐさま奥へと通された。次々と運ばれてくるフレンチにも、生演奏で奏でられるシャンソンにも興味は無い。私はじっとセシルを見つめていた。彼の作法は完璧で、私を大いに満足させた。
テリーヌにナイフを入れながら、セシルは今日のステージへのこだわりをあれこれと話してくれた。アレンジ、ダンス、衣装、照明、カメラ、そして音楽。その語り口には抑えきれない情熱が迸っている。セシルは私が大衆音楽に詳しくないと気づいていたのか、今日のステージについてだけではなく、最近の仕事内容についても話してくれた。セシルが私の会社のCMに出演したことがあると知った時は驚いたものだ。
いつしか私もそれにつられるように、これまで見てきたブロードウェイのショーや、ミラノで聞いたオペラについて喋っていた。セシルの教養は深く、私の話すことに打てば響くように答える。彼の視点を通すことで、見飽きた娯楽が新しい輝きを持って私の前に姿を現していた。
人生に新たな光が差し込んでいく。それは私の心を救うと同時に、これまでの人生への嫌悪を抱かせ始めていた。
「ああ……こんなに楽しい時間は久しぶりだよ」
「ワタシもアナタと話せてとても楽しいです。――さんと一緒に舞台を見に行きたくなりました」
「私は君みたいな立派な気持ちで見に行ったことがないからな……。所詮、暇つぶしでしかなかったんだ。愛島さんのような情熱も何もない」
「それでもアナタは多くのものを見て、楽しんだ。それだけでも立派で、素敵なことです」
「優しいね。でも本当に君と舞台が見たいよ。今度は心から楽しめそうな気がするんだ」
私の言葉にセシルは照れたように笑って頷いた。私は天国を見たような気がした。
セシルは私にはない物を全て持っている。何かに打ち込める情熱、努力を重ねる忍耐力、他人への優しさ、そんなものが彼からは常に溢れていて、……私にはあまりにも眩しすぎた。
だからだろう。私の腐った性根がふと頭をもたげた。こんな聖人でも一皮剥けば同じ人間だと信じたかった。そう思うことで彼のような生き方が出来なかった自分を守ろうとしたのかもしれない。
「セシルさん、今晩空いてるかな? ここの近くに趣味が良いホテルがあるんだ。君も気に入ると思うよ」
そう言った時の僕はいっそ小気味良いような気持ちだった。男にさほど興味は無いが、こんな聖人でもスポンサー相手なら寝るという事実を確認したかったのだ。
無論ただの冗談だ。もしOKしたら盛大に笑ってやろう。セシルが、いや、何かの為に己を捧げて輝ける存在の正体が、これまで見てきた薄汚い人間と同じだと証明したい。その一心だった。
セシルはまず、二三度瞬きをした。
「すみません……。明日も仕事があるので、お断りします」
彼は変わらず微笑を湛えていたが、その目にははっきりと失望の色が浮かんでいた。その瞬間、私は全身の血の気が引くのを感じていた。それでも私は認めたくなかった。一時の自己庇護で、自分が取り返しの付かない失敗をしたことも、そもそもそんなことを考えた自分の性根の腐り具合も。
「悪い話じゃないだろう。私ならもっと事務所に仕事を回すことも出来る。……そうだ、君をまたCMに出してあげたっていい」
それを聞いた瞬間、セシルの眉が分かりやすく吊り上がった。
「いいえ、お断りします。そんなことをする事務所だと思われるのも困ります」
彼のよく通る声ではっきりと拒まれて、私は我を忘れた。拒まれたのは人生で初めての経験だった。それは酷い屈辱を私に抱かせ、あらゆることを棚上げし、侮蔑されたという被害者意識を作り上げていた。
「君は私を誰だと思っているんだ?」
「誰であろうと関係ありません」
その時、別テーブルに待機していた部下達が血相を変えて走ってきた。彼等はセシルではなく、何故か私の方に来た。
「お前達は黙っていろ。彼との話はまだ終わっていない」
「後生ですから今は引いてください」「シャイニング事務所との関係を悪くする訳には……」「国際問題にもなりかねません! あまりにも分が悪すぎます」
私は少し冷静さを取り戻した。事務所との関係悪化で事業に支障をだせば私の安穏な生活も終わりだ。だが……。
「国際問題とは何のことだ?」
それを聞いた部下達は互いに顔を見合わせた後、おずおずと切り出した。
「愛島様はアグナパレスの皇子です。我が社とも楽器を何度も取引されています」
「なんだって……!」
私は思わず絶句した。完敗だった。私よりも遙かに恵まれた地位にいる人間がセシルだったのだ。目眩がする。自分がやったことへの空恐ろしさのせいではない。そんな地位の人間があれほど情熱を持ち、美しく輝くことが出来るという事実にだった。これまでの人生に感じていた空虚は、私の怠慢の結果でしかないと改めて突きつけられてしまった。
今にも卒倒しそうな私を差し置いて、セシルは静かに立ち上がると財布から食事代を出していた。
「失礼します」
セシルは淡々と頭を下げると、踵を返して歩き去っていった。彼は決して振り返らなかった。その凜とした後ろ姿を私はしっかりと目に焼き付けていた。
その時初めて、人生のままならなさを知った。それを教えてくれたのはセシルだ。抱いた気持ちの正体に、私はようやく気付いた。
これこそ、私の初恋だった。
連載形式で進めていこうと思います。セシ春前提ものです。
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