先に君を愛したなら

告白

 それから男はセシルを犯す前に、セシルの曲を掛けるようになった。どれほどセシルがやめてほしいと懇願しても、男は決してやめようとはしなかった。寧ろセシルが不快感を露わにし、惨めさに押し潰されていくほどに、男の胸は高鳴った。 「ああっ、やめて、あぅ、ああ゛あぁあぁっ!」  男が腰を動かす度に、セシルは悲鳴にも似た嬌声を洩らす。内部を暴かれる度に脳髄まで響きそうな快楽がセシルの全身を貫いた。その間も曲は流れ続け、セシルの脳裏には切れ切れに思い出が浮かび、それら全てがどす黒い快楽で塗り潰されていく。  CDを機械が呑み込む度にセシルの体はすくみ、音楽が恐怖と結びつくようになるまで、時間は掛からなかった。それが男にとって狙い通りであることは分かっていても、セシルに抵抗する術など無い。曲を聴いても体は鉛のように動かない。ダンスが思い出せなくなり、首を絞められたように喉が締まって声が出ない。その事実が気が狂うほどに恐ろしく、セシルの焦りは彼を余計に追い詰めていく。 「お願いします……どうかやめてください……。ワタシが愚かでした……アナタに従います。だから、どうか……これだけはワタシから奪わないで……!」  男が我が物顔でCDを取り出す度に、セシルは彼の腕に縋り付いて懇願する。だが、男はその恐怖に歪んだ顔に口付けると、大音量で曲を流し始めた。セシルは咄嗟に耳を覆い、その仕草を自分がしたことに対してさえ、深く傷ついた顔をしていた。  なんと優しく、素直で、愛おしいのだろうか、と男は思った。だからこそこの行為には価値があるのだ。男はセシルの両手を掴み、耳から引き剥がすと、言い聞かせるように口を開いた。 「音楽こそ、君たちの愛の証だろう? だから私も混ぜて欲しいんだ。私も愛したいんだよ。ただそれだけのことなんだ」  セシルは最早答える気力もなく、激しく首を振った。どれほど犯されても気丈だった彼が、静かに涙を流している。セシルの根本的な支えが全て穢され、破壊されようとしていた。その姿に男は胸が痛むと同時に、狂おしいほど欲情する。セシルを乱暴にベッドへと押し倒すと、男はその体を蹂躙始めた。今にも崩れ落ちそうな悲鳴が部屋に満ちた。  それから男が部屋を出ることはほとんどなくなった。窓も時計もないこの部屋で、男が出入りをしなくなると、セシルの感覚は完全に狂ってしまった。季節も、時間も、天気も、全て無意味だ。セシルの目に入るのは男の生白い肉とシーツ、変わり果てた自身の体、黒々とした鎖、壁、それだけだ。まるで世界にはセシルと男しかいないと錯覚しそうになり、セシルは必死に自身を叱咤する。だが、かき集めた気力も、男がCDを手にした瞬間、霧散するのが常だった。この狭すぎる世界の中で流れる唯一の音楽、それはセシルに外の世界を思い出させる道しるべであり、だからこそセシルをより追い詰めていた。輝かしいステージの光も、甘いピアノも、手を取り合った思い出も溢れて止まないからこそ、穢されてしまう。 「今、外はどうなっているのですか? あれから何日経ったのですか……?」  せめて少しでも別の手段で外を想起したくて、セシルは震える声で男に問う。だが、男は半笑いでセシルの頭を撫でるだけだった。セットされたCDから再び前奏が流れ始める。 「どうでもいいじゃないか、外の世界なんて。今の君には私しかいないだろう?」 「違う……ワタシは……ワタシには……」  男は深い溜息を吐くと、セシルの髪を掴んで顔を上げさせた。 「そんなに外の様子が知りたいのか?」 「ええ」 「そうだな。例えば……恋人の様子とか?」  男がそう言った瞬間、セシルは驚きで目を開く。 「教えてくれるのですか……?」 「いいよ。そんなに望むなら」  驚きと疑問が入り交じった顔をするセシルを残し、男は壁に備え付けられていたリモコンのボタンを押した。途端にプロジェクターのスイッチが入り、壁に監視カメラの映像を映し出す。 「ハルカ……!」 「ああ、リアルタイムの映像だから、ちょうど今の彼女の姿だよ」  春歌は椅子に腰掛けていた。最後にセシルが彼女の姿を見た時から、明らかに痩せている。机の上には五線譜が何枚か置かれているが、何も書き込まれていなかった。憔悴した彼女の顔を見るだけでセシルの胸は引き裂かれそうだった。手を離したのは自分だと分かっていても、彼女の涙を拭えない今の自分自身をセシルは憎んだ。春歌の唇が動き、セシルの名前を形作った瞬間、彼は思わず映像へと手を伸ばす。だが、その手を掴んだのは男の太い指だった。男はセシルを自分の方へと無理矢理引き寄せる。男が何をするつもりなのか、セシルはすぐに察した。 「こんなの嫌! 嫌あ゛あぁ!」 「あまり我儘ばかり言わないで欲しいな。君の望みは叶えているだろう?」  男は背後からセシルを抱きしめると、首筋に深く口付けた。そのまま両手を伸ばし、全身を丁寧に愛撫していく。途端にセシルの拒絶に嬌声が混じり始めた。 「んんっ……ぁ、やめろ……く……あ……あああっ、あ」 「可哀想に。彼氏が他の男とセックスしながら泣き顔見てるなんて知ったら、流石に百年の恋も醒めるんじゃないか?」  「黙れっ!……っぐ」  「ほら、下向くな」  男はセシルの髪を強く引くと、映像を見せつける。春歌が楽譜を片付けながら、涙を溢れさせていた。きっと仕事も手に付かないのだろう。その涙を拭ってあげたいとどれほど願っても、今のセシルには何も出来ない。 「へえ~、嫌々いいながらずいぶん興奮してるみたいだね。変態だなぁ」 「んぐうう゛ううぅっ! ああっ、それは、アナタが、触……ぁあああっ」  男はセシルを嘲笑しながら、勃ち上がった陰茎を扱いている。セシルがその手から暴れようともがいても、男はしっかりとセシルを抱きしめて離さない。強制的に快楽と被虐感まで与えられ、セシルの脳裏が白んでいく。その間も悲しむ恋人の姿を見せつけられ、音楽は絶え間なく流れているのだ。それなのに自分は快楽に溺れているという事実が、セシルの精神を容赦なく削り取っていく。 「やだっ、やだっ! おねがいします、おねがっあ、あっああ゛……やめて、やめえ゛ぇええ゛ぇえっ!」  情けない音を立てて精液が飛散する。男はセシルを抱きしめたまま、耳元で大声で笑った。セシルの心が罪悪感で沈んでいく。意図せず低い嗚咽が響き、その惨めさにまた誇りが傷つけられる。何よりも罪深い存在だという自覚がセシルの心を蝕んでいった。 「どうかな。これでもまだセシルには私以外に誰か愛する人はいるかい?」  男はプロジェクターのスイッチを切り、セシルに再び問いかけた。その声は明るく弾んでいた。だが、セシルからは何の返事も無かった。男が顔を覗き込むと、セシルは涙に濡れた頬もそのままに男を見つめ返した。最早睨む気力すら奪われてしまっているが、それでも彼はどうしても男に屈することは出来なかった。男は思わず肩を落とす。その目には失望がありありと浮かんでいた。 「ここまでやっても、まだ……まだ駄目なのか…………。お互い、落ち着いて考える時間が必要だね」  男はセシルをベッドに押し倒すと、手足を再びしっかりと枷で拘束した。セシルは当然抵抗したが、弱り切った体で出来ることなど高が知れていた。枷は四肢にしっかりと噛み付き、僅かな身動きすら許さない。男はベッドから降りると、部屋の照明を最大限明るくし、空調の温度を限界まで下げた。 「じゃあ私も頭を冷やしてくるよ。セシルもよく考えるといい」  そう言い残すと男は部屋を出て行った。一体何を考える必要があるのだろうかと、セシルはぼんやりと考えた。だが、そんなことを思う余裕は瞬く間に失われた。煌々と照る証明は目を閉じてもセシルの目に光を届かせ、疲労のままに眠ることさえ出来ない。そして冷えきった部屋の空気はセシルの体温を容赦なく奪った。体を暴れさせて抵抗しようにも、固められた手足は痛みを増していくばかりで動かすことは出来ない。そしてその間も音楽は流れ続けているのだ。数十分もしないうちにセシルは狂気と正気の境まで追い込まれていった。幸せだった頃の記憶が絶え間なく脳裏を巡り、見せられた悲しみの表情がそれを塗り潰していく。罪悪感に叫び、全身の痛みが骨まで響く。意識が遠のきそうになる度に、光が目を焼き、閉ざすことを許さない。  厚着をした男が戻ってきた時には、セシルの目は虚ろで体は冷え切っていた。絶え間なく荒い息を吐いているその様子は彼がどれだけ極限の地獄に追い込まれていたかを伝えている。 「大丈夫かい?」  男の手がセシルの頬を撫でると、ようやく視線が男に向けられる。だが、もう何か反応を返す余裕などセシルには残されていなかった。 「やめてほしい?」 「……はい」  掠れた声で返された返事に男は満足げに頷いた。慈しむようにセシルの髪を指で梳きながら、男は言葉を続ける。 「やめてほしかったら、……そうだな。愛してると言ってくれないか?」  男は勝ち誇ったような眼差しでセシルを見つめたが、セシルの唇はゆっくりと動いた。 「い……や……」  その瞬間、男の顔から血の気が引いた。セシルは自分が何を言ったのかも分かっていないようで、無言のまま虚空を見つめている。男は怒りに任せてセシルの頬を打ったが、セシルは何の反応も返さなかった。 「そうか。なら好きなだけ自分の無力さを噛み締めるといい」  男はオーディオ機器の音量を引き上げると、ベッドの側の椅子に荒々しく腰掛けた。突然大きくなった音量に、セシルはきつく目を閉じて唸っている。苦しいのだろう。それなのに何故セシルがここまで耐えようとするのか、その理由を考えるだけで、男は足下から崩れ落ちそうだった。 「なあ、セシル……頼むよ。今はまだ、本当の愛の言葉じゃなくてもいいんだ」  男はセシルの耳元まで唇を寄せて語りかける。だが、セシルは首を振るばかりだった。男はその度に音量を引き上げる。男は耳栓をし、セシルに語りかけ続けた。 「気持ちなんか今はこもってなくてもいい。ただ、私に愛してると言ってくれるだけでいいんだ。そうしたらやめてあげよう。悪い取引じゃないだろう」  最早鼓膜が破れそうな音量で音楽が流れる中で、セシルにどこまで聞こえたかは定かではなかった。だが、その状況はセシルを更に追い詰めていた。  煩い、と思ってしまった。彼女の曲を聴いているのに、耐えがたいと思ってしまった。苦しい、と思ってしまっている。あれほど幸せだったはずの音が鳴る度に、心が引き裂かれ割れるような頭痛に苛まれる。その度に罪悪感がセシルの心を覆っていく。このままでは気が狂ってしまうだろう。自身の正気など、最早セシルにとってどうでもよかったが、狂気に至る引き金を春歌の音楽に背負わせることだけは避けたかった。  男とセシルの視線が合う。セシルは覚悟を決めた。自分の心を守る為に、自分の心を裏切る矛盾がセシルを引き裂く。それでも、ピアノが鳴った瞬間、耐えきれずにセシルの唇は動いた。 「……愛している」  男の表情が、日が差すように輝いた。男はすぐさま音楽を止め、セシルを暖かな毛布で覆う。枷も全て外された。男は毛布ごとセシルを抱きしめて、頬に口付けた。  激しい耳鳴りの中で、セシルは男の声を途切れ途切れに聞いた。 「ありがとう。よく出来たね、よく頑張った……。今日はゆっくり休むんだ……。私も愛しているよ」  男は満ち足りた様子でそう言うと、軽やかな足取りで部屋を出る。照明も落とされ、セシルは部屋に一人残された。セシルは頭まで毛布を被り、数時間ぶりに手足を曲げて、身を丸めた。そして湧き上がる悲しみのまま、声が枯れるまで泣き続けた。

あと2,3章くらいで終わりです。

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