先に君を愛したなら

残響

 それから数日間、男はセシルのことを変わらず嬲っていたが、部屋に来ない時間が増えていた。セシルはそれに疑問を抱いたが、体力の削り落とされた体では深く考えることも出来ずに意識を失うことが常だった。  セシルの顔に浮かび上がっていた隈が僅かに取れた頃、男は上機嫌な様子で部屋に入ってきた。 「やっと準備が出来たよ、セシル。お願いがあるんだ」 「……何ですか」  断ることも出来ないお願いなど、命令と変わらないと、セシルは冷めた目で男を見る。男はその視線には気付いていないのか、セシルにはめられていた枷を外し、袋を手渡した。 「それを着て私に付いておいで」  袋を開けたセシルは眉間に深い皺を寄せる。中に入っていたのは過去に着たことのあるステージ衣装だった。本物なのか、完璧な再現なのかは分からなかったが、セシルの記憶の中にあるものと寸分違わない。レースの入れられた品の良いシャツ、宝石がはめ込まれたブローチ、裾の長いベスト、漆黒のスラックス、編み上げブーツ、それらをセシルが一つ一つ身につける度に、男は感嘆の溜息を吐いた。セシルの手を取り、男は部屋のドアを開ける。  その先の部屋は、セシルが最後に見た時とはすっかり様変わりしていた。 「ここは、スタジオ……?」 「気付いたんだ。流石だね」  家具類などは全て取り払われ、そこには沢山のライトとステージが備えられている。カメラも何台も用意されていて、男の使用人であろうスタッフ達がスピーカー機材をチェックしていた。セシルが以前出演した音楽番組の収録スタジオの完全な再現がそこにあった。 「幾らスポンサーをしているとはいえ、このセットの再現はなかなか難しくてね。最近構ってあげられなくてすまなかった。寂しい想いをさせたね」 「…………やめてください」  セシルは血の気の失せた顔で首を振る。次に男が口を開く前に手で塞ぐことが出来たら、どれほどいいだろうかと願った。だが、男は無慈悲に言葉を続けている。 「じゃあ、そこで歌ってくれないか。私達が始めて出会った日の曲を、私に生きる意味を教えてくれたステージをもう一度見せて欲しい」 「嫌です!……それだけは!」  セシルがそれ以上言葉を続ける前に、男はセシルを抱き寄せた。腰を強く抱き、震える瞳を正面から覗き込む。 「やるんだ。笑顔で、最後までやりきれ」 「…………っ」  男は片手で携帯を握りしめている。少し操作すればきっと、映像や写真が公開されるのだろう。断れないことはセシルにも分かっていた。それでも懇願せずにはいられなかったのだ。身を引き裂かれそうな拒否感を抱きながら、セシルは頷く。男は安堵したような笑みを浮かべると、セシルの背を押し、ステージの方へと向かわせた。ふらつく足取りで、セシルはステージに続く階段を上っていく。ステージに向かうことがこれほど苦しいのは始めてだった。  ステージには立ち位置を示すテープが貼られている。処刑台に上るような気持ちでセシルはそこに立った。だが、最早これ以外に選択肢はない。セシルは覚悟を決めると、深く息を吸い、顔を上げた。  その瞬間、スタジオの空気は一変した。スポットライトが優美なその姿を照らす。そこに立っていたのは、男の無力な奴隷などではなく、アイドル〝愛島セシル〟だった。  これほど血気迫るステージはなかっただろう。今にもふらつきそうな軸足を支え、ステップを踏み、枯れたはずの喉からは美しい歌声が響く。溢れる旋律がセシルに力を貸しているようだった。そしてセシルの誇りと強い想いがパフォーマンスを支えている。機材を担当していた使用人達もその様を見て息を呑んだ。セシルの目には次第に光が戻り、彼の輝きは増していく。  男の目からは静かに涙が溢れた。神に祈りを捧げるかのように、その場へと跪く。目の前の光景は、生きる意味を男に教えた、かつての景色そのままだった。  曲が止まった瞬間、本来ならば大歓声に包まれるはずのスタジオには、男の狂ったような拍手の音だけが響いていた。 「素晴らしい……素晴らしいステージだった……」  そう言いながら男は階段を上り、舞台へと上がった。セシルは夢から覚めたように男の姿を見る。咄嗟に後ずさろうとするその体を、男は決して逃さないようにしっかりと抱きしめた。 「ありがとう。やっと私だけの為に歌ってくれたね」 「アナタの為ではありません」  セシルの言葉など、男は耳に入っていない様子だった。男はセシルの肩に顔を埋めて静かに涙する。衣装が濡れていく感覚はセシルに不快感だけを与えていた。 「やっぱりステージの上のセシルが一番綺麗だ。……ずっとこうしてあげたかった」  そう言うと男はセシルに体重をかけ、床に座らせた。最後の気力を振り絞り、疲労した体へと、容赦なく肉の塊がのしかかっていく。 「やめて、いやっ、嫌だっ!」  セシルは死に物狂いで抵抗するが、男はその抵抗さえも楽しむようにセシルの腕を片手で掴む。そして空いた手にカッターナイフを握った。 「暴れないでほしいな。君を傷つけたくない」  目の前に刃を突きつけられ、セシルの動きが止まった。男は微笑むと、セシルの腕を取ったまま、ベストを切り裂く。金のボタンが床に転げた。 「最後のステージにふさわしいものを見せてもらったよ。もう、こんなものセシルには不要なんだ」  男の手が動き、レースが散っていく。白い布地の隙間から、震える褐色の肌が露わになっていた。  「もう誰も開演を待つことはない。ははっ、こんな衣装じゃステージには立てないからね」  布が裂かれる音を聞く度に、セシルは耳を覆いたいのを必死に堪えていた。露わになった肌に男は手を這わせ、セシルの肉欲を呼び起こす。どれほど心が悲鳴を上げて拒絶しても、変わり果てた体は反応を見せていく。 「やめて……やめてください……っ」  それはセシルの心を更に追い詰め、傷つけていく。衣装が切り裂かれ、肌を暴かれる度に、アイドルとしての自分が否定される感覚を味わった。スポットライトがステージを照らし、無機質なカメラが何台も録画を続けている。この場で犯されることが、セシルにとってどれほど恐ろしいか、男でさえ真の意味で理解することは出来ないだろう。 (もし、あの日ステージに立っていなければ……)  そこまで考えた瞬間、セシルは息を呑んだ。恐怖で体がすくみ、息が早まる。 (ワタシは今……何を考えた?)  かつてのステージを、愛おしい恋人と作り上げた全てを、セシルは否定しそうになったのだ。その事実はセシルの精神に深刻な打撃を与えていた。目の中に宿っていた光が見る間に力を失っていく。一度生まれた絶望はセシルの心を容赦なく食い潰し始めていた。

2章分同時更新です。

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