先に君を愛したなら
あの味をもう一度
男の言う罰はそれだけでは終わらなかった。最早セシルを消耗させる為に、男は手段を選ぶつもりはないらしかった。次に手が入れられたのは食事と水だった。それまで、セシルの食事は簡素な物であったが飲み水と共に一日三回部屋に運ばれていた。だが、反省を強制されて以降、セシルの飲食物の用意は男のきまぐれな指示で行われるようになった。
行為を拒否した、強く睨んだ、愛の言葉に耳を塞いだ、そんなつまらない理由でセシルの食事は取り上げられた。栄養状態が崩れ、セシルは日ごとにやつれていく。男はそんなセシルの目の前で食事を取ることを好んだ。男が食べているつやつやと輝く白飯や、出汁のよく染みた煮物の香りを嗅ぐだけで、セシルは痛いほどの空腹を持て余す。だが、男を喜ばせるような反応をセシルは拒んだ。食料を強請るわけでも、怒りを露わにすることもなく、力なく目を閉じてベッドに繋がれているセシルは、少し面やつれしている。だが、それはより陰のある美貌を男に晒しているだけだという事実にセシルは気付いていなかった。
「よく頑張っているね、セシル」
「…………」
ある夜、食卓についた男に呼びかけられたが、セシルは沈黙を守っていた。男は機嫌がいいのか、セシルの反応を咎めることなく話を続ける。
「今日の夕食は特別料理なんだ。ああ、早く君に見せたいよ」
使用人が扉を開け、料理が運ばれてきた瞬間、セシルは思わず身を起こした。鼻孔に満ちたのはあまりにも覚えがある香りだったからだ。男の前に料理が置かれた瞬間、それはセシルの中で確信に変わった。
「何故……アナタがそれを……!」
「ああ、もう気付いたのか。セシルはこれが好きだったからなぁ」
卵焼き、和風のつくね、きんぴらごぼう、ひじき煮、のりを巻いたおにぎりが二つ、皿にまとめて盛られている料理の数々は春歌がよく作っていたものだった。
「質問に答えてください。何故アナタがそれを食べているのかと聞いているのです」
「そんなに怖い顔をしないでほしいな。簡単な話だよ、キッチンにも監視カメラは仕掛けてあるからね。あの子が愛情込めて作っている行程が嫌ってほどに残っていたのさ。これは完璧な再現だよ。懐かしいだろう?」
そう言いながら男はおもむろに箸をつけた。作りたての卵焼きからは湯気が出ており、驚愕で収まっていた食欲が再びセシルの中で頭をもたげた。男は無意識に拘束から逃れようとしているセシルを眺めながら、卵焼きを口に運んだ。
「ふ~ん、卵焼きは甘いのか。……思い出すよ、これを食べていた君の笑顔を。あんなに幸せそうで、こんなくだらない家庭料理に」
男は心底見下したように料理を見据えると、いかにも不服そうな様子で食べ進めていく。男の咀嚼音を聞くだけで、セシルは自身の手が怒りで震えるのが分かった。男がわざと汚らしく食しているのも、味付けを貶めるのも、全てセシルの精神を嬲る為だとは分かっていた。だが、胸の内に抱えていた思い出が穢されていく中で、冷静さを保つことがセシルにはどうしても出来なかった。
「アナタの想いはとても醜い。こんなことをしても、何にもならないのに」
「彼女の料理が出てきた途端に随分元気になったね。そんなに食べたいのかな」
男はセシルの様子を鼻で笑いながら、皿に残った料理を床に払い落とした。セシルが驚いて口を開く前に、男はそのまま料理を土足で踏みつける。まるで自分の心まで一緒に踏みつけられたようで、セシルの胸は強く痛んだ。
「なんということを……!」
「残念だけど、セシルの分は最初から用意していないんだ。まあいいだろう。これまで散々食べていたんだから」
男は勝ち誇ったように笑うと、使用人に掃除を命じた。床の料理は掃き集められ、淡々と捨てられていく。それを見たセシルが何を叫ぼうと、彼の意志など最初から存在しないかのように部屋は清められた。
使用人が出て行くと、セシルは再びベッドに体を横たえる。だが、目を閉じても、男の嘲笑う声や料理が踏み潰される光景が何度も浮かんでいた。無意識に視界が歪み、セシルは顔を覆う。大切な物を貶められても、何も出来ない無力な自分が、セシルはただ疎ましかった。
だが男はベッドに乗ると、セシルの腕を掴んで無理矢理引き起こした。
「さあ、君の食事だよ」
そう言われた瞬間、セシルの頬に僅かに残った血の気が引いていく。男が〝食事〟と証する行為が行われ始めて、既に四日は経とうとしていた。男は自身の陰茎を取り出すと、セシルの眼前に突き出す。
「存分に飲みなさい。死にたくなければね」
「……っ……はい」
セシルは男の陰茎に手を添えると、その先端を口に含んだ。酸味と腐臭が口内に広がり、セシルは必死に吐き気を堪える。それでも吐き出す訳にはいかなかった。これが今のセシルにとって唯一の栄養源だった。
この四日間、男は食料も水もセシルに与えようとはしなかった。代わりに男がセシルに摂取するよう強要したのは自身の精液だった。セシルは目を閉じたまま、陰茎を喉奥まで含み、丁寧に奉仕していく。辺りに響く水音も、男の洩らす声もセシルの自尊心を酷く傷つけた。思い出の中にあった食事は目の前で踏みにじられ、それでも生き延びる為に男に奉仕する惨めさについて考えるだけで、セシルの精神は音を立てて軋む。その様を男は満足げに眺めていた。
男が射精に至り、セシルは口内に溢れる苦く生ぬるい体液を呑み込む。ここまで穢されても、セシルは耐えることしか出来なかった。抵抗すれば、破滅するのはセシルだけではないのだ。遠い故郷に満ちるであろう偏見の目、事務所に向けられるだろう真偽入り交じった醜聞、そして何より愛おしい彼女の全ては暴き出され、無数の人々に消費される。その事実はセシルにとって何よりも恐ろしかった。
だが、そうやってセシルが全てを守ろうとするほど、その高潔さは男の目を焼き、セシルという存在への執着を強めていた。どれほど貶めようと、寧ろ貶めれば貶めるほどに、セシルは美しくなっていくように、男には思えてならなかった。追い詰めて得られる満足感など一瞬で消えてしまう。どれほど手にしようともがいても、セシルは決して手中に収まらないのだ。彼が心から男に屈服したことなど一度も無かった。その事実は常に男を苛立たせていた。
次回から最終段階に入っていきます。
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