先に君を愛したなら

真の愛の理解に向けて

 セシルは全身をくまなく〝洗われた〟後、男に半ば抱きかかえられるように引きずられながら部屋まで戻った。体力を限界まで削り落とされ、男の腕を振り解く気力もセシルには残されていなかった。部屋のベッドに投げ出され、濡れた体がマットレスに沈んでいく。既に意識を失いつつあるセシルの頬を男は叩いた。 「ほら、まだ寝ちゃ駄目だよ。君にはまだやることがあるんだから」 「…………これ以上何を」  掠れきった声で呟くセシルの眼前に、男は一冊のノートを差し出した。 「これから毎日これを書くんだ。賢い君ならきっとすぐに出来るはずだよ」 「何を書けばいいのですか」  最早拒絶の意志を示す体力すら惜しく、セシルは早く終わらせようと先を促した。男は何を勘違いしたのか、深く頷くと言葉を続ける。 「これはセシルが反省する為の物だ。今日君が何を間違えたのか、どうして私の想いを踏み躙れたのか、どう償うかを書いてごらん」 「は……?」  セシルは耳を疑うような気持ちで男の口元を見ていた。男の言っていることへの理解を脳が拒絶していた。何一つ意味が分からなかった。だがその様子を見て男は深い溜息をつくと、再びセシルに手をあげた。 「……っう」 「君はまだ自分が正しいと心の底では思ってる。違うかい?」 「それは……」  セシルは男の言葉を否定することが出来なかった。事実、男の言葉はどれも支離滅裂だとしかセシルには思えなかった。彼の言う愛も、想いも、何一つ理解出来なかった。 「私はそれが気に入らないんだ。今すぐにでも矯正されるべきだと思っている。これを書くことで、セシルが自分で自分の間違いを見つめてくれれば、……賢い君のことだ、きっと分かってくれるはずなんだ」 「…………」  絶句するセシルへと、男はノートとペンを押しつけた。 「ほら、書いて。今すぐだよ。一ページきちんと埋めるんだ。そうしないと……そうだな。さっきの浴室で潮吹きしていた時の写真を君の部屋のポストに入れようか。あの子も彼氏の様子が分かって嬉しいんじゃないかな」  セシルが驚いて顔を上げると、男は苦笑した。先ほどまで虚ろだった目の光が戻っている。あの女に知られたくないのだと、今更な抵抗への嘲笑と、未だに気力の源になっている存在への苛立ちが男の中でない交ぜになっていた。だからこそ男はセシルの心を完全に手に入れるべくこんなことをしているのだ。  男に見つめられ、セシルは震える手でボールペンを握る。『ワタシは、』と書いた後、手は動かなくなった。男が優しく背を叩くと、セシルは深く息を吸い、固い表情のまま先を書き始めた。そこに綴られる反省がセシルにとって何一つ真実ではないことを、男は理解している。だが、嘘でもいいから書くということが重要なのだ。セシルが一瞬でも、男に従わず彼を愛そうとしない自分を責めたという事実さえあればいい。セシルは本質的に正直で、素直な人間だ。だからこそ、思い浮かんだ事実は彼の本質を否定し、心を強く傷つけるのだ。  それから数日間、セシルがどれほど疲弊し、苦しんでいようと、男は一日の終わりにノートを書かせることを強制した。今にも意識が途切れそうなセシルの柔らかな頬を何度も叩き、水を浴びせて意識を覚醒させる。そして書き込まれた偽りの反省を、男は丁寧に読み込んだ。あの丸みを帯びた愛おしい文字が、男に従わなかった自身の愚かさ、愛してくれることへの感謝を綴ってくれている。それだけで本当に幸せだった。セシルの内心がどうあれ、男にとって、これは意中の相手から送られたラブレターに他ならないのだから。 「ありがとう。セシルの本当の言葉が聞けて嬉しいよ」  そう言いながら男はセシルを抱きしめる。その体は酷く震えていた。 ***  ワタシがこれを書くようになってから、何日経っているのでしょう。口出すのも憚られるような悍ましいことをされたワタシは、汚らしい体液を垂らしながらペンを握ります。書かないという選択肢はありません。……ハルカに、彼女にだけは知られなくない。無意味なことだと分かっていても、彼女の平穏な生活をこれ以上穢すことに、きっとワタシは耐えられないでしょう。愛おしい彼女は今、何を想っているのか……。  そこまで考えた時、あの人から頬を叩かれました。広がる鈍い痛みにもすっかり慣れてしまった。ワタシはゆっくりとペンを走らせます。自分の気持ちをごまかすことが、随分上手くなってしまいました。 『ワタシは独りよがりでした。アナタの愛を理解せず、拒絶し続けた』  ……今も全く理解できない。愛する人に何故こんなことが出来る? 『アナタのおかげでもっと気持ちよくなることが出来ました。とても嬉しいですが、恥ずかしいです』  恥ずかしい。重なる行為でワタシの体はすっかり恥ずべき物に成り下がってしまった。 『今日も愛を恵んで頂けて、感謝しています。明日もよろしくお願いします』  そんなことをワタシは望んでいない。ワタシの全ては彼女の為だけに捧げていた。  心の中で幾ら否定の言葉を叫んでも、ワタシの前には全く違う言葉が並んでいく。それをあの人は声に出して読む。ワタシもその後に続いて読まされる。その度にワタシの本当の気持ちは踏みにじられ、貶められる。ワタシはワタシを否定させられる。  そんなワタシの姿を見て、あの人は微笑んでいる。こんなに歪んだ微笑みがあることなど、知りたくなかった。  びっしりと文字を書かされて、痛くなった腕を抱えながらワタシは体を横たえる。あの人に抱き寄せられても、抵抗することは出来ない。これほどの歪んだ想いを、ワタシ以外の人に向けさせる訳にはいきません。それがワタシに残された唯一の出来ること。  ワタシの体も、言葉も、想いも、あの人にとっては快楽の為の道具に過ぎないのだがら。

2章分同時更新です。

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