たくさん愛してください
たくさん愛してください
酷く長くて哀しい夢を見た。セシルが目を覚ますと同時にその記憶は無意識下へと押し込まれた。辺りを照らす蛍光灯の光が眩しい。怖々と周囲を見渡すと、周囲は白で統一された華美な洋室になっていた。
「……え……っ?」
意識を失う前、セシルは確かに男の部屋に居た筈だった。思わず立ち上がろうとして、セシルは自分の躰が指一本動かせないことに気づいた。今迄以上に強く躰は戒められているらしい。セシルの躰は豪奢な椅子に深々と腰かけているらしかった。
男の不衛生な部屋とは違い、高所にある窓から自然光が降り注ぎ隅々まで磨き上げられた部屋はセシルにとっては別世界のようにも思えた。目の前には沈んだ色の木製の扉が鎮座している。無人の部屋にセシルの呼吸音だけが響いた。誰もこの場にいない、男さえ。その事実に気付いた瞬間、セシルは助けを求める為に口を開いた。
「誰かッ――」
その時部屋の扉が開く。その場にいたのはセシルがよく知る人物だった。
「……カミュ?」
「時間を割いて来てやれば……何だその顔は」
すらりと高い長身を正装に包んでいるカミュは怪訝な顔をしながらセシルへと歩み寄る。セシルは暫し茫然としていたが、息を呑むと堰を切ったように叫んだ。
「カミュ! 聞いてください、このままでは皆が危ない! さっきまでワタシに酷いことをする人がいたのです! 逃げないといけません! 助けて下さい!」
「本当は俺ではなく然るべき親族が行うべきだと言ったのだが……」
しかし、カミュはまるでセシルの訴えが聞こえていないかのように話し始めた。口を閉じて怪訝な顔をするセシルを無視して、カミュはセシルの背後に腕を回す。
「『呼ぶのも面倒だし、先輩だったお前でいい』とあの方に言われてしまった」
カミュの腕が頭上を通り、その手が離されると白く薄い布が視界を覆う。見たことのある、いつかきっとと夢見たこともある、だが着る側になるとは全く想定していない衣装に身を包まされているとセシルはこの時初めて気づいた。
思わず下を向こうとして、躰を動かせる範囲が固定されていることを思い出す。セシルの肩が震え、顔から血の気が失われていく。
「待ってください! カミュはおかしいと思わないのですか!?」
「何がだ? ……馬鹿猫め、こんな日に今から泣いていてどうする。行くぞ」
向けられる言葉は普段の彼そのままに冷めていて、そして温かい。この異常な状況下でも何一つ変わることなく。カミュの目だけが異様な光を宿している。
「はっ……ぁ……!?」
腕を引かれると嘘のように軽く躰は立ち上がった。その行為に快楽が伴う異常さにセシルは困惑した。性感帯と化した膚に被せられた布が身動きする度に擦れている。その感覚は愛撫と何ら変わらなかった。それほどまでに開発は進み、躰は狂わされてしまっているのだ。
だがセシルの躰は意思を無視して、そのまま勝手に歩み始める。カミュもそんなセシルに気を留める様子は一切なかった。今朝咲いたかのような美しい薔薇のブーケが彼から手渡される。大切な行事を目前にした語らいは終わった。
セシルの危機意識が最大の警報を鳴らす。男の手は事務所にまで伸びている。そして、少なからず魔法の心得があるカミュまでもがこの状態なのだ。それならば、他の皆がどうなったのか想像に難くなかった。
扉が開かれると割れんばかりの歓声がセシルを包む。
床には深紅のカーペットが敷かれ、天井は見上げるほどに高い石造りの教会には多くの人が集い、遂に現れた花嫁を〝心から〟祝福していた。
「こんな……酷い……」
戻ることを夢見ていた日常は既に跡形も無く壊されていた。周囲には同じ事務所の友人、先輩、他にも仕事で関係のあった人々が祝福の言葉を空虚に繰り返す。誰一人この状況に違和感を覚えていないのは明白だった。向けられる全ての目には異様な光が映っている。視線を正面に向けると全ての元凶が卑しく微笑んでいた。
醜く肥えた躰を無理矢理タキシードに包んだ男は、既にその下半身を兆しその本性を露呈している。そして、待ち構えるステンドグラスに映るセシルの姿も、これ以上なく似合いの浅ましく淫猥な花嫁だった。
彼が身に着けているのは、シルエットこそ普通のウエディングドレスだった。だが、限りなく薄い布地で作られたそれは変わり果てたセシルの躰の線を容赦なく暴く。
長期の監禁で肉が付き丸みを帯びた躰、乳輪からぷっくりと肥大し何倍もの大きさと感度へ育てられた乳頭は布の上からでもよく見えた。薬でホルモン異常でも現れたのか、女のように括れた腰にはコルセット状の布地が巻き付く。
敢えて正面に回された編み上げ部分から透けて見える膚は、自然と目線を引き付けた。背後こそ長いスカートで隠されていたが正面のスカート部分は異常に短い。それ故に情けなく縮んでしまった陰茎が擦れた快感で勃起し、布地を押し上げている様がよく見えた。別人のように細くなった首にはリボンの付いたチョーカーが首輪のように巻かれ、瞳は意図せずとも誘うように潤んでいる。
その変わり果てた姿は正気な者であれば目を背けたくなるほど無残だった。それでもヒールを履かされた脚はセシルの意思を無視して進んでいく。
すると視界には更に醜悪なものが見え始めた。普通は聖遺物などが置かれている筈の祭壇は無数のセシルのグッズと男に撮られたのであろう調教中の写真で彩られている。光り輝く偶像として微笑んでいた姿と、快楽と暴力に打ちのめされている裸体を同時に飾る悪趣味な代物。見ているだけで眩暈がした。最早その場で吐いてしまわない方が不思議な位だった。
「ねぇ見て。僕の集めてたセシル君コレクションだよ。君に片思いしてた時からずっと集めてたんだ。素敵でしょ」
すえた臭いを放つその塊がこれまで何に使われていたのか言われなくても理解出来た。汚らわしい祭壇までの道を歩き切り、今にも崩れ落ちそうなセシルを男は抱き留めた。男が目配せを送ると、付き添っていたカミュは頷き席へと帰っていく。
「待ってください! こんなのおかしいです! 助けて!」
だが、その背に向けられた懇願に彼は微笑むだけで、何も応えることはない。
「無駄だよ。みんなセシル君の声なんて聞こえてないんだから。それにしてもまぁ、あんなに祝福してくれてさ。君が出てきた時の歓声聞いた? 良い仕事仲間が沢山いて良かったねぇ」
「離して! 離せ!」
顔色を蒼白にして暴れようとする細い躰を男は更に強く胸に抱く。
「君のお友達も、先輩方も、事務所の人も、みんな僕が呼んだんだよ。君は僕だけのものだってこの中で証明してあげるからね」
神父が説き始めた愛の教えもこの狂気の場では上滑りしていく。そもそもこの空間を支配しているのは愛と呼ぶのもおこがましい歪み切った執着に過ぎなかった。
セシルの悲痛な叫び声が響く中で、誰一人疑問を抱くことなく式は厳かに進行している。必死に助けを願うセシルの懇願は新婦の感動の涙という認識にすり替えられ、救助という発想の可能性さえ喪われていた。その懇願に感極まり鼻を啜る音まで客席からは聞こえていた。
「新郎はこれから花嫁であるセシルを守り、愛し、どんな時でも支えていくと誓いますか?」
「誓います」
決まりきった誓いの文句に凄まじい嫌悪がセシルの全身を貫いた。本来神聖である儀式を穢し、思うがままに歪めている男の有様だけでも醜い。異教の形であれ、想い人と行う筈だった婚姻の場に、並ぶ相手がそのような存在である事実。人生における決定的な時を踏み躙られた瞬間だった。
「花嫁はこれから新郎である……を守り、愛し、どんな時でも支え続けると誓いますか?」
「嫌だっ! 嫌です! 絶対に!」
「往生際が悪いよ? ほら」
男はセシルを鼻で笑うと運ばれてきた指輪を差し出した。その美しさを口々に褒め称える声が教会に満ちる。最早セシルの意志を顧みる者など此処には誰も残っていない。どれほど拒もうと式の進行は一切乱れることはなかった。男の肥えた指が左手を包み込む、それだけでセシルには悪寒が走った。
「アナタとだけは嫌! 皆を開放してワタシを離せ!」
「止めてよ、折角の僕と君の結婚式なのに他のこと考えるのは……」
「ふざけるな! ワタシはアナタのモノではない!」
セシルがそう叫ぶと同時に、男はセシルの左手の薬指に銀の指輪を差し込んだ。ライムグリーンのダイヤモンドが所有の証のように輝く。即座に外そうとしたセシルの腕を男は押さえこんだ。
「それ結構苦労して探したんだから大事にしてほしいな。〝結婚指輪〟だよ?」
その瞬間、多くの人の憧れたる言葉はセシルにとって呪い同然のものとなった。全身の膚が泡立ち、光彩が限界まで締まる。この場から逃げ出したいという何度祈ったか分からない願いにも、彼の脚はセシルをその場に縛り付けるように動こうとしなかった。
「――ではこれより行われる神前での情交をもって、二人を正式な夫婦とする」
「えっ……?」
これまでセシルが何度叫ぼうと動じず、淡々と式を進めていた神父から唐突に飛び出した言葉は普通の式の手順からはあまりにもずれていた。
だが目に見えて動揺しているのはセシルだけで、他の人々は騒ぎもせずそれを当然のように受け止めている。楽しみだ、おめでとう、いつかは僕達も、そんな悍ましい言葉が次々と耳に飛び込み、セシルは遂に自身が発狂したのかとまで考えた。ヴェールが捲り上げられると、意図せずとも性感が高められ潤んだ瞳が男を睨む。それに映る男の笑みはますます醜く歪んでいた。
周囲には同じ事務所の友人、先輩、他にも仕事で関係のあった人々が多く集っている。皆一様にセシルを心から祝福し、感動の瞬間への一挙一動も見逃すまいと熱心に視線を注いでいた。この環境の中で何をしろと言われたのか理解出来なかった、否、理解したくなかった。
「今……何と……?」
「聞こえてたでしょ? 誓いのセックスだよ。セックス。ここで良くなって貰うために今まで沢山練習したんだもんね」
男は腿を掴むとセシルを背後から抱え上げた。思わず上がる拒絶の声は誰に届くこともない。それに合わせてスカートが捲り上げられ、今にも結合しようとしている部位が群衆によく見えた。おめでとう、おめでとうと祝いの言葉がセシルにまで届く。
助けを求めて視線を滑らせた瞬間――居た。人だかりの中だったが、見間違う筈もない。ずっと逢うことを願い、今最もこの姿を見られたくないと願った存在が、セシルに虚ろな視線を注いでいる。
「ハルカまで……こんな……」
「ああ、あの子ね。あの子は君以上に苦労したよ。どんなに支配しようとしても君の名前呼び続けるし、力弱い癖に暴れるしさぁ。いっそ君と竿姉妹にでもして分からせてやろうかと思ったくらい」
「は……? そんな……話が違う! ハルカには手を出さないと!」
「本当に嫉妬深いなぁ。僕の本命はセシルくんだけだからヤッてないよ。さぁ、めでたい場なんだから笑って笑って」
「ぎぅうう゛うううっ!」
誇らしげに如何に尊厳を踏みにじったかを語る男が抑えようもなく憎い。だが躰は簡単に意志を裏切り、軽く乳頭を摘まみ上げられるだけで力が霧散していく。男はその情けない様にこれ以上ないほど欲情していた。
「ほら、元カノちゃんに見せつけてあげようね」
「やだっ……見ないで! やめて! ……それだけはいやぁあ゛あああ゛あぁ!」
必死の懇願は当然のように無視され、嬌声が響く。男の亀頭が前立腺を殴り、深く結合した部位は白日の下に晒されていた。
「あ~あ、こんな媚びっ媚びの雌声出しておいて、彼氏は無理でしょ」
「お願いです! やめてぇっ、動かないで! 離して!」
必死に男の腕を押しのけようと暴れても、それは過剰に布へと膚を擦りつけ快楽を加速させる結果にしかならなかった。それほどまでに弱らされていた。男は嬌声混じりの懇願を聞きながら、腰を突き動かし始めた。
「ああっ! あっ、あっいあ゛あぁあ! もう無理です、からっ! ハルカ……ごめんな、さっ、うあ゛あぁあああっ!」
「いい加減諦めなよ。ほら春歌ちゃんへの最後の顔射だ!しっかり味わえよっ!」
セシルは限界まで自分の躰に抵抗していた。だがそれも地獄を僅かばかり延ばしたに過ぎない。男が春歌の方へとセシルを抱えたまま躰を向けた瞬間、絶頂に達した陰茎は精液を吐き出した。
親指程度までに成り下がった陰茎から非常に弱々しく、ぽたぽたと垂れ落ちる其れは射精と呼ぶのもおこがましい。セシルは既に雌に堕ちたと明確に見せつけるものだった。
脱力し、手から滑り落ちたブーケを春歌が受けとった瞬間、教会は割れんばかりの拍手に包まれた。それも当然だろう。めでたいブーケトスを未婚の女性が受け取ったのだから。
彼女とセシルの友人達が取り囲み、口々に祝福の意を述べる様をセシルは光を失いつつある目で見つめていた。
誰か良い相手が見つかるといいね、と声を掛けられる恋人の姿。それを見た瞬間、足元から崩れるような絶望がセシルの精神を食い潰していった。それと同時に、躰の内部で男の精液が迸る音が響いた。
春歌の虚ろな瞳からも祝福の涙が流れる筈だった。だがその瞬間、春歌を包んだものは圧倒的な違和感。
眼前に繰り広げられているのは何よりも幸福な情景である筈だ。それなのにとても大切なものが今、確実に潰された。そう考えてしまう違和感を彼女は拭うことが出来なかった。それでも自然と頬に涙が伝っていく。だがそれに伴う感情は心からの喜びだと、彼女には思えなかった。何故かは分からない。それでも春歌は仲間達ほどに祝福の感情に浸りきることが出来ていなかった。
男が手を離すとセシルはそのまま床へと崩れ落ちた。
「セシル君、逆らったら分かってるよね?」
男が何を言いたいのか、そんなことは長期に渡る監禁生活で完璧に理解出来ていた。出来てしまっていた。
男はセシルの髪を掴み、引き摺り上げる。眼前には精液塗れの男の物が異臭を放っていた。セシルは自然に口を開くとそれを丁寧に舐め始めた。
「やっとセシル君の綺麗なお腹にザーメンブチまけられて嬉しいよ。ねえ、子供は何人欲しい?」
夫婦初の共同作業だな、そんな軽い野次でさえ男の優越感を満たしていく。例え躰だけだとしても自分はセシルを手にし、こうやって支配することが出来たのだ。自身を苦しめ続けた舞台袖の幻影に男は漸く打ち勝てた気がした。
高らかにファンファーレが鳴り響く。男は再びセシルを抱え上げるとその後孔へと深く突き入れた。陰茎に付着した唾液と内部の精液が混ざり合い、空虚な嬌声が鐘の音に合わせて響く。最早セシルは抵抗もせず、男のされるがままだった。誇りも、想いも何もかも全てを打ち砕かれた彼にとって抵抗など何の意味も無い。帰るべき場所も、歩むべき未来も彼には何一つ残されていないのだから。セシルはこの場にある全てに心を閉ざしていた。
幸福な花婿と不幸な花嫁はヴァージンロードを繋がったまま通っていく。祝福の叫び、口笛、花吹雪とライスシャワーが雨霰と降り注いだ。開かれた扉からは監禁以来初めて見る青空が見えていた。閉じ込められて以来ずっと、セシルが焦がれ続けた出口――外への扉はより大きな監獄への入り口に過ぎなかった。今となっては世界全体が彼にとっての地獄なのだから。外には高級車が止まり、新たな夫婦を今か今かと待ち構えている。だがセシルはそれに目をやることなく、死んだように瞼を閉じていた。
そして高級車へとセシルが押し込められようとした瞬間、彼の耳にはっきりと声が届く。
「待ってください! 行かないで! セシルさん!」
思わずセシルが振り返ると、此方に向けられているのは忘れもしないあの眼差しだった。ブーケを投げ捨て、体液に汚れた絨毯を踏みつけて春歌は今にも連れ去られようとしている恋人へと駆けていた。
その瞬間、セシルの目に浮かんだのは歓喜にも似た安堵と、絶望にも似た哀しみだった。セシルは春歌の声に応えて叫ぶ。
「ハルカ! 危険です! 来てはいけない!」
最早セシルには春歌の想いに応じる力など残されていなかった。隣で笑いあっていたのが遠い昔のように感じられる。今のセシルに出来ることは彼女が男の毒牙に掛からぬよう、望み続けていた再会を拒否することだけだった。自らの呪縛を解いた春歌を見て、舌打ちをした男は強引にセシルを引き摺り込む。
「嫌です! わたし、必ずセシルさんを――」
その時、車のアクセルが踏まれ、割れんばかりの拍手が教会を包み込んだ。見る間に此方へ駆ける春歌の姿が遠く、見えなくなっていく。
「ダメだよ。今日この日に神に誓いあったのは君じゃない。僕なんだから」
男は昔の恋敵に向かって、満足げに呟いた。
そしてセシルの気丈だった精神が頬を伝う様を男は眺める。漸く男は理解していた。セシルが手中に収まらないということは永遠にその過程を楽しむことが出来ることと同義なのだ。既に取り返しのつかないほどに、セシルの肉体は堕ちている。どう足掻こうと最早彼は歌うことも、踊ることもままならないのだ。それほどまでに追い詰めたのは他でもない男自身だ。その惨めな有様を一生嘲笑われ一緒に地獄に堕ちることこそ、男がセシルに望む唯一の贖罪だった。
「新婚旅行はアグナパレスに行こうね。セシル」
男はセシルの顎を掴み、何より深い口づけを交わす。
二人の運命を祝福するように。
2022/1/13のプリコンに持参予定の既刊モブセシを再録しました。と~ってもお気に入りの話です。
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