そして光は灯された

六等星のアンタレス

 ステージの上に立つ瞬間――それを忘れた日はない。  俺が歌っていたのはどこも小さな会場だった。地下のライブハウス、くたびれた公民館、市営の音楽ホール、百人も入らないような場所だ。だが、ライブ中はそれら全てが夢の城へと変わる。  俺の一挙一動に合わせて、炎のように一面の赤が揺らめいた。赤はアイドルとして歩み始めた俺に与えられた色だった。俺の色を灯したペンライトが会場一杯に輝いてる光景は、何度見ても美しかった。  それまでなんとなく生きるだけの、空っぽな人生を送っていた俺を、その光は肯定して飾り立ててくれた。その輝きに夢中になるまで時間は掛からなかった。 ファンの愛、俺という存在への肯定、生きる喜び、その光には俺が求める全てがある。 この輝きと共に生きようと本気で誓った。容姿も悪くなく、要領も良かった俺はシャイニング事務所正所属をあっさりと決めることも出来た。 事務所のバックアップを得てから、俺はますます人気を高めた。 俺を照らす眩しい赤――少しずつその光が広がっていくことが何よりの喜びだった。  だが、そんな日々は長くは続かなかった。正所属が決まってから数年もしない間に俺を取り囲む光は広がるどころか、日に日にその輪を狭めていくようになった。  なんとかしてそれを食い止めたくて、次々と新曲を出して、同期には頭を下げて仕事を回してもらった。ネットの反応を見て回り、ファンの要望には何でも応えた。 だが、幾ら頑張っても聞こえてくるのは空回りだとか、つまらなくなっただとか、贔屓を自称する知りもしない女達の諍いだとか、そんなくだらない声ばかりだった。 期待の新人として俺を眺めていた周囲は次第に手のひらを返していった。次々と現れる後輩達にも赤を与えられる奴らが出てきた。深いワインレッド、ビビットな赤、知名度でも瞬く間に抜かされて、アイドルとしての俺の唯一性は瞬く間に崩れ去った。  そして、そんな俺を追い落とす決定打になったのが、愛島セシルだった。あいつの人気は凄まじかった。デビューこそ他の同期と比べて少し遅れたらしいが、そんな差なんてものともせずにセシルは事務所の主力に上り詰めた。 それと同時に僅かに残っていた俺のファンも瞬く間にいなくなってしまった。その大半はセシルに熱を上げているのがSNSから窺い知れた。俺とセシル、何が違うのか分からなかった。デビューはこっちが先だったし、実力にも大きな差があるようには思えない。 あいつは外人で、言語や文化の理解度の面でハンデもあるはずだ。 セシルについて調べていくうちに、あいつが異国の皇子なことも知った。 その地位を利用しているんじゃないかと思おうともした。だが、幾ら調べてもそんな事実は出てこなかった。セシルは正式な手段を踏んでデビューして、自分の力だけで活躍している。その事実は余計に俺を苛つかせた。  そんなことしている間に、俺は一般誌に載れなくなって、テレビにも映らなくなって、ファンレターの数が目に見えて減った。セシルが現れて人気を落としたアイドルは俺以外にも多くいたのに、他の連中はそれぞれ自分の強みや居場所を見つけ直している。 分厚い才能の壁を意識し始めたのは、この時からだった。三流の芸能誌にさえ取り上げられなくなって、最近ではエゴサーチすら意味を成さなくなってきている。 仕事の数が減ったことで、事務所に立ち寄ることも少なくなっていた。 「――さんの仕事の資料ですけど、どうやら届いてないみたいですね」  ……たまに訪れたらこれだ。 「そんな訳ないだろ。地方局でやるラジオの台本があるはずなんだ」  苛立ちを隠せずに俺は目の前の事務員を睨みつけた。どうやら新人らしいその事務員は大量の資料を抱えたまま眉を寄せる。 その視線がデスクに放置された作りかけの書類に向いていることも腹立たしかった。 「今日届くって聞いてんだよ。もう一回探してきてもらってもいいかな」 「あっ、届くのは今日だったんですね。分かりました」  事務員は抱えていた資料を脇に置くと、さっきとは別の資料の山へと走って行った。 案の定そこに台本はあったらしく、事務員はばつが悪そうに戻ってきた。 「あっ、ほんとだ。すみませんでした」 「……次から気をつけてね」  大人らしい対応をする気にもなれなくて、ひったくるようにして台本を受け取る。 もう一度睨みつけてやろうとしたが、既に事務員は資料作りに戻っていて、俺の視線は無為に彷徨うだけだった。薄い台本は握りしめるだけで簡単に皺が寄る。 あんな血の巡りが悪い下っ端が俺の対応に回っている時点で事務所からの期待が知れた。 新曲なんて最後に回してもらったのは七ヶ月も前だ。売上も到底納得出来るものではなかった。タイムリミットが目に見えて迫っている。 一般人に戻ることだけはどうしても避けたかった。あの光の海を見ていたい。俺の願いはそれだけだった。あの光に目を焼かれたら、もう普通の生活なんて出来ない。  早足で廊下を曲がろうとした時、スタッフが急に飛び出してきた。 「おい、前くらい見て歩けよ……」  もう我慢出来ない。堪った苛立ちを全部こいつにぶつけようとして息を吸い込んだその時、スタッフは顔を輝かせて俺に近づいた。 「ちょうど良かった! すぐに来てくれ! ライブがあるんだ!」  呆気にとられた俺が言葉を失っていると、スタッフは俺を引きずるようにして会議室に連れ込んだ。ドアの傍らには〝シャイニング事務所合同ライブ対策本部〟と達筆な手書き看板が出ていた。  ――事務所の精鋭だけが出演出来る合同ライブが近々開催されるのは知っていた。 今の俺には関係ないことだと思っていたが、どうやら運が向いてきたらしい。 欠場の穴埋めでも何でもいい。きっとこれから俺が掴むのは大きなチャンスだ。 はち切れんばかりの期待をしながら、俺はスタッフの次の言葉を待った。  そうして今、俺は合同ライブの会場にいる。既に席は観客で埋まっていて、割れんばかりの歓声が俺のいる舞台裏まで響いていた。出番を察した俺は準備の為に歩き出す。  腕に巻かれたスタッフ証が力なく揺れていた。今の俺は前座でも欠場の穴埋めでもない。 俺は、ステージにさえ立てていない。  君のような人間を探していた、ライブ出演経験があるスタッフは貴重だと、会議室では褒めそやされたが、何を言われても空虚に響くばかりだった。大きいイベントだけあって、人手が本当に足りない中で白羽の矢が立ったのがこの俺という訳だ。たったそれだけの話だった。  皮肉にも、スタッフの狙い通り俺はよく働けていたと思う。何度か自分でライブ準備もしたことがあったから、どう動くべきなのかは自然と理解出来た。観客を誘導し、演者の移動を手伝い、道具類を整理する。 だが、この仕事が幾ら上手く出来ようが高揚する訳もなかった。事務所の主力達が次々に歌を響かせ、舞台裏まで揺れている。何度目かの拍手喝采が伝わってきた時、俺は黙って踵を返した。今日まで耐えてきた糸がふつりと切れた気がした。  足の向くままにやってきた休憩所には誰もいない。置いてある演者用のペットボトルをかっぱらって蓋を開け、冷えた水を無理矢理飲み込んだ。惨めだった。 「お疲れ様です」 「……えっ、あ。ハイ、お疲れ様です」  その瞬間、水を吹き出さないように必死だった。いつの間にか休憩所に誰か来ていたからでも、突然話しかけられたからでもない。他でもないそいつが愛島セシルだったからだ。  俺が慌ててボトルの蓋を締めるのも気にせずに、セシルは俺に話しかけてくる。あいつが着ている煌びやかな衣装は簡易照明を反射してやけに眩しく輝いた。 居たたまれなくなった俺はセシルの話を遮って、したくもない世間話をした。 芸能もこのライブも関係がないような、今日の天気とか遠い国の世界情勢とかを俺が捲し立てている間、セシルは頷きながら聞いていた。 適当に聞き流せばいいのに、あいつは真摯に耳を傾けているらしかった。 「……ちょっと長く話し過ぎたな。次の準備があるから、それじゃ」 「色々話してくれてありがとうございました。おかげで少し気持ちが解れた気がします」  セシルの言葉を聞いても自己嫌悪だけが浮かんでくる。早くその場を離れたかったが、事態はそれだけでは終わらなかった。セシルは本当に何気ない調子で言葉を続けた。 「次のライブはいつですか? アナタの歌は素晴らしいから」  俺は咄嗟に答えられずに、目を見開いたままその場で立ち尽くした。息さえ出来なかった。なんで、このタイミングでそんなことを言うんだ。衝動的に掴みかかりそうになって、必死に自分を抑えた。水を飲んだばかりなのにやけに喉が渇くとか、そんなどうでもいいことが混乱した脳裏をよぎっていた。 「さぁ、いつなんだろうな。今日の俺はただのスタッフだしさ」  俺が腕のスタッフ証を見せると、セシルは静かに眉を寄せた。 「アナタにこれを頼んだ人は無神経ですね」 「ありがとう。今となっちゃそう言ってくれるのは愛島さんだけかもしれないな」  セシルの言葉に一切嘘はないんだろうなとぼんやり思った。あいつは本当に俺の活躍を覚えていたし、それを素晴らしいと思ってくれていた。  だが、その事実は俺に余計惨めさを感じさせた。そんなことを今になって言われても、何の救いにもならない。それどころか、行き所のない苛立ちが溢れて止まらなかった。 お前のせいで俺は何もかも上手くいかなくなったのに。セシルが俺を認めていたなんて、知らない方がずっとマシだった。 「ほら、愛島さんはそろそろスタンバイだろ。今日は俺が支えてんだからしくじるんじゃないぞ」 「はい! 頑張ります」  少し励ましたら、単純なセシルはすぐに気持ちを切り替えて目の前のステージへと集中し始めている。セシルは俺へ深々と頭を下げると、休憩所を出ていった。凜とした後ろ姿を見ながら俺はその場に座り込んだ。次の仕事なんてもうどうでも良かった。  いつまでそうしていたのか分からない。ふと気づくとセシルの歌声が辺りに響いていた。 俺は唸るように舌打ちをした。その技術も、今日で一番大きい観客の歓声も、気に障って仕方なかった。だが、俺の体は自然と立ち上がっていく。ふらつきながら進む足を止めることが出来なかった。吸い寄せられるようにして辿り着いたのは、舞台裏に設置されているモニターだった。  そこには愛島セシルが映っている。微笑み、歌い踊って、誰よりも輝いているあいつの姿があった。その輝きに負けないくらいの光が辺りに満ちていた。  美しい光の海だった。明るい緑色の、俺とは正反対の色が、セシルの為だけに会場を埋め尽くしている。憎かった。許せなかった。あの場所にいるのが俺であってほしいと、どれだけ願ったか知れなかった。  だが、それは夢物語に過ぎない。自分が一番分かっていた。
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