勇気が生まれる場所
「駄目だ、駄目だよ……やっぱりこんなこと間違ってるんだよ……」
ガチャン、と軽い音がしてカッターナイフが床に落ちる。僕はそれを拾おうとして、強く手を握りしめた。
愛島セシルが国に帰る、とニュースが流れたのはつい昨日の話だった。トップアイドルの実質的な芸能界引退宣言は日本中で話題になっていた。その時悲しみ、惜しむ想い、そんな一般的な感情が国中を包んでいたが、皆納得したような顔をしていたのが妙に印象的だった。だってセシル君はいつまでもアイドルでいてくれる訳ないのだから。セシル君はアグナパレスという国の王子様だった。もうある程度の年齢になったのだから、国に帰って王様になる。それは皆口に出さなかっただけで暗黙の了解だった。
それを一番分かっていたのはファンで、セシル君に寂しさを感じながらもその決断を応援しようとか、今までアイドルでいてくれてありがとうとか、そんな長文がインターネットを駆け巡っていた。そんな有象無象の一人である僕も、そうあるべき筈だった。笑顔で送り出す覚悟も決めていた。あんなことを知りさえしなければ。
震えながら記事をスクロールした記憶が蘇ってきて、僕は壁を伝うようにして座り込んだ。気分が悪かった、ひたすらに。
帰国次第、結婚式が開かれる。セシル君が僕達だけのものじゃなくなる。それは仕方ない。でも、その相手が日本で見つけた相手ってどういうことなんだ。誑かされたんじゃないのかって思いで僕の頭は一杯だった。だっておかしいだろう。セシル君くらいの立場なら向こうの国でふさわしい相手を探してあったって不思議じゃない。それにセシル君の事務所は公式に恋愛禁止だ。
もし、昨日から何度も思い浮かんだ仮定がまた頭を過る、もし、その相手と結婚する為にアイドルを辞めるんだとしたら? そう考えるだけで頭がおかしくなりそうだった。つまり、セシル君が恋愛なんかしたせいで僕がセシル君を見つめていられる時間が削られたってことじゃないか。一年でも、一ヶ月でも、一秒でも、長さなんてどうでもいい、知らない女にセシル君と僕の時間が奪われたって思うだけで吐き気がした。それに相手が日本人ってことは、セシル君はアイドルをやっている間も恋愛してたってことだ。僕に、何度も、何度も、愛してるって、好きだって言ってくれたのに。恋愛なんてしたことないってあれほど言ってたのに。セシル君は事務所も、僕も裏切って、そのまま手の届かない場所に行こうとしている。その事実がこれ以上無い程辛かった。僕がセシル君だけを思い続けて生きていた数年間で、セシル君は着々と僕を捨てる算段を立てていたんだ。今までの想いに砂を掛けられた気がして、耐えられなかった。
部屋の電話が鳴る。もうこれで五度目だった。仕事に来てないことを問いただす電話だろう。もうどうでも良かった。セシル君に裏切られて仕事なんか出来ない。生きている意味も無い。今の僕には何も無い。それは何が起きても怖くないってことでもある筈だった。
僕は怖々と床に落としたカッターナイフを見る。銀色の刃が蛍光灯を反射して光った。
セシル君が本当に国に帰ってしまうなら、今が最後のチャンスだ。僕の想いを踏み躙ったなら、セシル君だって僕に踏み躙られるべきなんだ。そこまで思えるのに、臆病な僕はどうしてもあと一歩が踏み出せないでいた。
「どうして僕は……僕はいつも…………!」
悪いのはセシル君だ。悪いのは相手の女だ。僕じゃない、僕じゃないのに。僕だけがこんなに苦しんでいる。壁に貼っていたセシル君のポスターまで嘲笑しているように見えてきて、僕は耐えきれずに部屋の隅でうずくまった。憎い。好きだったからこそ、何倍も苦しい。僕は無意識のうちに小型のオーディオプレイヤーのスイッチを入れていた。仕事が嫌だった時、家で孤独に押し潰されそうな時、人生が辛い時の僕の癖だった。
途端にセシル君の歌声が流れ始める。失敗した、と思った。最近はセシル君の曲しか聴いてないんだから当たり前なのに、今セシル君の曲を聴くのは僕にとって辛すぎた。慌てて止めようとして、ふとある歌詞が耳に飛び込んできた。
いっそ、強引に破ればいい……。自分の手で運命を切り開こうとするその歌詞は、最近の曲でも凄く勇ましくて初めて聴いた時には、かなり驚いたのを思い出した。アップテンポな力強いメロディもそれの印象を後押ししている。本当に格好いい。そう思った瞬間、僕は雷に打たれたような気持ちになった。あれだけ沢山あるセシル君の曲の、幾つもあるセシル君の歌詞の中で、このフレーズが僕の耳に飛び込んできたのは運命ではないだろうか。セシル君からのメッセージだ、そう思うと全ての線が結ばれたような気がした。あの子はいつも僕を励まして、自信を与えてくれるんだから。
おかしな話だ、答えなんてとっくに見つけていたのに気づけないなんて。
微笑んだ僕はこの世の誰よりも満たされた顔をしていただろう。投げ捨てていたカッターを拾い上げる。恐怖なんてこれっぽっちも感じなかった。気持ちを伝えたい、ただそれだけが僕の願いだった。セシル君だってそうだろう。僕にこんないじらしいメッセージを届けてくれていたんだから。今まで気づけなかったのが申し訳ないくらいだった。もう二度と落とさないように柄を握りしめ、扉を開ける。
誰も居ない部屋には僕の背中を押してくれる歌声だけが残っていた。
一週間連続でモブセシの短編を書こうとした挑戦の第一弾でした。春歌ちゃんと愛島君の結婚を聞いたモブの話。
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