旅立った日の後に

 私には学生時代の思い出が殆ど無い。そう言っても大抵の人間は信じないだろう。あの学園で、あんな人が校長で、あんな凄い人達が同期で、何も無かった訳が無いのだから。現に、三学期に必死になって学んだことや、卒業オーディションは細部まで鮮明に思い出せる。でも私が早乙女学園で過ごした大部分は、懸命に思い出そうとしても何故かぼんやりとした印象で埋め尽くされてしまうのだった。  アイドルを目指してかの早乙女学園へと入学した私は、人並みに努力して、人並みに才能と運の壁に阻まれて、人並みな生涯へと舵を切り替えた。中堅どころの芸能事務所で裏方に回り、色んなことに折り合いをつけて生きていくので精一杯。月日が流れる内に掴み所の無い学生時代の思い出を顧みることもなくなっていた。  そんなある日、私は仕事の資料を山のように抱えてテレビ局の廊下を歩いていた。これを三日後までにまとめ上げて会議資料を作らなくてはいけない。これから待ち受ける作業への鬱憤をどうにか顔に出さないようにして足を進めていると、私のすぐ隣を誰かが通り過ぎていった。  私と同じくらい大量に資料を抱えているその女性は、肩で切り揃えた柔らかそうな髪を揺らしながら歩いていた。背は私より随分低いけど、スタイル自体は悪くない。でも何より私の目を引いたのは、彼女が頬を染めて幸福に満たされた笑みを浮かべていたからだ。まるでこれから恋人との逢瀬が待っているかのようなその顔は、同じように資料を抱えているのに殺伐とした顔つきをしていた私を少しだけ震えさせた。  思わず振り返ると、笑顔の彼女は資料の重みで少しよろけながらスタジオに入っていくのが見えた。その時、私は反対側の廊下から男性が歩いてくるのに気付いた。  遠くからでも分かるオーラ、変装していても強く目を引く外見の持ち主は、愛島セシルだった。彼は私の同期だったが、卒業オーディションの優勝者だったセシルと、辛うじて学園にいた私と関わりは殆ど無い。会釈をする私に合わせて向こうを頭を下げたが、当然ながら私のことは覚えていないようだった。セシルは例の彼女と同じスタジオに入っていった。  誰もいなくなった廊下で私は黙って踵を返した。その時、ふと私は笑顔の彼女が誰かを思い出した。七海春歌――彼女はクラスメイトだった。けれど私の記憶に残っている彼女と、先程すれ違った彼女は最早別人と言って良いほどに印象が違う。ぼんやりとしていた筈の学生時代の記憶が、七海春歌を中心に少しずつ具体的な形を得ていく。クラスの中で彼女はいつも控えめ過ぎる程控えめで、あまり容量の良い方には見えなかった。はっきり言えば一部の生徒は明確に彼女を見下していたように思う。だからこそ、卒業オーディションで彼女が作った曲は多くの人間を驚かせていた。……そうだ、どうして忘れていたんだろう。卒業オーディション優勝者はアイドル一人切りではない。七海春歌は愛島セシルのパートナーだった。  だから一緒のスタジオに入ったのだと気付くまでそう時間は掛からなかった。彼女が浮かべていた表情の意味も。最近の愛島セシルの活動について私は殆ど知らないが、それでも知っている彼の人気から考えて、二人のパートナーとしての関係は今も続いているのだろう。卒業オーディションの曲があれほど観衆の心を打ったのは二人の絆があってのもの、ほぼ無関係な私でさえそう理解出来ていたのだから。  私は資料を抱え直し、再び歩き始めた。仕事を終わらせたら久しぶりに休みが取れる。同じ夢を見ていた元パートナーに連絡でも取ってみるのも面白いかもしれない。

久々に書けました。実際セシ春ルートの世界って人々の記憶とかどうなってるんでしょうね。

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