待てば海路の日和あり

「あ……」  どうしようもないと悟った時、逆に声は出ないものなのかとセシルは他人事のように知覚していた。  穏やかな昼だった。次の仕事までの時間潰しで入ったカフェは、ピークの時間を過ぎていることもあり、セシルの他にほとんど人はいなかった。セシルはアイスミルクを一つ頼むと、隅の席に座る。数分もしないうちにウェイターが席までやってきた。 「アイスミルクでございます」 「ありがとうございます」  ウェイターがコップを掴もうとした瞬間、手が滑ったらしい。手が当たったコップが倒れ、中身がテーブルに広がる。運の悪いことにテーブルの上にはセシルの携帯が乗っていた。  セシルがそれに気づいた時には既に携帯は牛乳塗れになっていたが、慌てて手に取ろうとした瞬間、濡れた携帯はセシルの手から滑り落ちた。 「あ……」  どうしようもないと悟った時、逆に声は出ないものなのかとセシルは他人事のように知覚していた。床に直撃した携帯の画面には大きなヒビが入っていた。  その後、顔を蒼白にしたウェイターや店の責任者からは丁重な謝罪を受けたが、それはセシルの耳に半分も入ってこなかった。力ない足取りでカフェから出ると、セシルはそのまま仕事先へと向かっていった。 「お疲れ様です……」 「やぁセッシー。お疲れ様」  セシルが楽屋に入ると、レンは開いていた台本を閉じた。カフェを想定より早く出たこともあり、楽屋にはパイプ椅子に腰掛けたレンだけしかいなかった。 「どうしたの? 顔色が悪いよ」 「レン……。実は先ほど立ち寄ったカフェで携帯を壊してしまって」 「それは災難だったね、ちょっと見てもいい?……う~ん、結構ひどいね」 「はい……」 「データは無事?」 「一応電源は入りました」 「それなら大丈夫だ。まだ時間あるよね? 一旦オレのPCにデータ避難させようか」 「いいのですか? ありがとうございます」 「お安いご用だよ」  レンが渡された携帯を操作している間に、セシルはレンの隣の椅子に腰掛けた。彼の表情は暗いままだった。  ――切り替えが早いセッシーにしては珍しい。レンはそんなことを考えながら、データの救出が終わった携帯をセシルに手渡した。 「そのスマホって仕事用? 事務所になら多分交換用の予備があると思うけど」 「いえ、これはプライベート用なので仕事に影響はありません。ただ……明日から海辺でロケが入っていて」 「なるほどね。それは一大事だ」  セシルが向かうロケ地はとある海辺の田舎町だった。携帯ショップがあるかはかなり怪しい。道中で買う時間もなかなか取れないだろう。そしてプライベート用の携帯が使えないということは、ロケ先でセシルが恋人である春歌と連絡が取れないことを意味していた。 「昔ほどではないのですが……海はまだ怖くて」  そう呟くとセシルは俯いてしまった。水が恐ろしいこともあり、海での仕事はあまり得意ではない。前にも海辺での仕事前に、セシルがどこかに電話を掛けている姿をレンは何度か見たことがあった。 「それでレディと電話したかったんだね」 「はい……。でも、神はそんなワタシを甘えていると思ったのでしょう」  苦笑しながらセシルは手にしていた携帯を鞄にしまった。 「神様がどうお考えかは知らないけど、オレはセッシーの姿勢は立派だと思う」  案外はっきりした口調でレンはそう言うと、肩をすくめて話を続けた。 「ああそうだ、聖川が昔こんなこと言ってた。『待てば海路の日和あり』ってね。ちょっと古くさい言葉だけど、役に立つこともあるんじゃないかな」 「その言葉は聞いたことがあります。良い言葉ですね。ありがとうございます、レン」 「大したことじゃないよ。ロケ、頑張って」  セシルは手帳を取り出すと、その言葉を空いているページに忘れないよう書き付けた。ちょうどその時、スタッフが入室して二人を呼ぶ。セシルとレンは頷き合うと、スタジオへと歩き出した。  そして次の日、セシルは鈍行列車の窓から海を眺めていた。視界に大きく広がっていく海は、まるで列車を呑み込むように思われた。 (頑張らなくては……)  ひび割れた携帯を握りしめて、セシルは周囲に分からないように深く息を吐く。その時、同行していたスタッフから呼びかけられた。目的の駅に着いたらしかった。  寂れ始めているのを隠せていないその港町は、やっきになって町興しをしている最中だった。宣伝にも限界まで予算を割いており、番組を通じてセシルが訪問することになったのもその一環だ。二日ほど滞在し、町歩きをして見所を紹介するというよくある内容のロケ。スタッフにも顔なじみが多く、皆談笑しつつ駅から商店街へと向かっていく。不安を抱いているのはセシルだけだった。  幸いにも、海からある程度離れている商店街の取材は上手くいった。町の人々は親切で、セシルは彼等の善意に応えながら町を歩くだけで良い絵が撮れた。昆布で取った出汁を使った味噌汁、出来たての練り物に舌鼓を打ち、鰹節からはセシルの為にとおかかおにぎりが作られた。 「Amazing! ここには素敵なものがたくさんあるのですね」  セシルがそう感嘆の言葉を述べる度に、人々の表情には町への誇りとセシルへの期待が滲む。それをセシルは見逃さなかった。自分たちの住む場所が良いと確信しているからこそ、セシルは呼ばれたのだ。宣伝効果さえあれば、まだこの町は盛り返せるのだと人々は信じていた。  その事実を味と共に噛み締める度に、セシルは無意識に背筋を伸ばした。  次は港を撮りましょう、とスタッフが声を掛ける。持たされた大量の土産を抱えながら、セシルはスタッフと共に海へと移動した。港までは徒歩で五分と掛からなかった。  ここで撮るのは海を背景にセシルが歩くカットだった。港から見える風景を写せば、それに惹かれる者は必ずいるだろう。重要なカットではあったがそう難しくはないはずだ。  カメラの準備が整うまで、セシルは船着き場の近くに立ち、眼前に広がる海を眺めていた。空にはやや雲がかかり、風も強い。そのせいか波が高く、セシルの方まで飛沫がかかった。 「……ひっ」  セシルの声と重なって唸るような波音が響く。思わずポケットの中に入っている携帯を強く握りしめた。幾ら自分を叱咤しても、心は目の前に広がる景色が水の塊だと告げている。――立ち向かわなくてはならない。海での撮影は初めての仕事でもないのに。そう思いながらセシルは強く首を振ると踵を返した。その時、準備が出来たとスタッフに声を掛けられた。  表情を作ることも仕事の一環だ。セシルは穏やかな微笑を湛えて海辺をゆっくりと歩いた。何台ものカメラがその様子を記録していく。  撮り終わるとすぐに映像のチェックが入った。恐る恐る画面を見たセシルは深く息を吐いた。 (良かった……!)  そこに写っているのは普段通りのセシルに見えた。空模様こそ曇っているが、風景の美しさも出ている。会心の出来とは言えなくても、悪い物ではなかった。 「愛島さん」  セシルに声をかけたのは共に映像を確認していた現場監督だった。セシルはすっかり肩の荷が下りたような気がして、意気揚々と返答した。 「はい! どうしましたか」 「悪いんだけど、もう一回いける?」 「えっ……はい。出来ます」  答えながらセシルは全身から汗が引くのを感じていた。震えそうになる声を必死に整えて言葉を続ける。 「何かありましたか」 「いや、これでも全然いいと思うよ。でも……なんかいつもの愛島さんと比べてちょっと表情堅いかなって」 「……すみません」 「こっちこそごめんね。付き合ってもらっちゃって」   監督はそう告げるとカメラマンへ指示を出しに立ち上がった。セシルは顔が上げられなかった。あの現場監督は何度もセシルと仕事をしている。だからこそ、セシル自身でも気づけなかった堅さが分かったのだろう。申し訳なさと動揺、自分の認識の甘さにセシルは頬が熱くなるのを感じていた。  それから数度撮り直したが、納得出来る物は撮れなかった。最後の撮影が終わった後、監督は時計を見て溜息を吐いた。撮影時間は明らかに押していた。 「あ~……大丈夫。もういいよ、映画とかじゃないし。最初の使おう」  ただ申し訳なさそうに告げられたことが、侮蔑されたり怒鳴られるよりも余程辛かった。 「申し訳ありません」 「いいよ。困らせてごめんね」  その言葉を皮切りに、周囲のスタッフも移動の為に荷物をまとめ始めた。セシルは思わず時計を見た。確かにもう今日は時間がない。それでも縋るような気持ちで言葉を続けた。 「あのっ、明日の朝もう一度だけ撮ってもらえませんか?」 「いやいや。最初ので大丈夫だよ」 「お願いです。……そうです、今日は曇っていますし、明日の朝は晴れです! きっと良い絵が撮れると思います。どうか、お願いします」  セシルが頭を下げようとするのを、監督は思わず押し止めた。 「分かった分かった。たしかに愛島さんの言う通り、晴れの海の方が絵的に綺麗だ。明日の朝一で一回だけ撮影しよう」 「ありがとうございます……! よろしくお願いします」  セシルが安堵して頭を下げた。それと同時に浮かんでくるのは自分の仕事への重い責任だった。チャンスを再び貰えたのは運が良かったに過ぎない。今度こそ成功させなくてはならなかった。  それからまた港の土産屋や町の名所巡りと撮影は夜遅くまで続いた。最早、町の構造はある程度把握出来るほど歩き回った。疲労でふらつく足でセシルがホテルのベッドに倒れ込んだのは深夜に近かった。  昼間の緊張もあり、眠気が一気にセシルを襲う。意識を失う寸前、セシルは仕事用の携帯で集合時間よりも大分早い時間に目覚ましをセットした。  泥のような眠りの末はけたたましい目覚ましで遮られた。 「まだ眠……ふぁ~…………………………はっ! いけません。起きなくては」  セシルは慌てて起き上がると、身支度を調えてホテルを出た。彼が向かう先は集合先からほど近い海岸だった。  一人で海岸を歩こうと、セシルは昨日から考え続けていた。出来る限り海辺の景色に慣れておくことで、少しは克服出来ると思いたかった。  早朝の海岸は周囲に誰もいない。セシルの靴音と波の音ばかりが周囲に響いている。近くの自販機でパックの牛乳を買って振り返ると、見渡す限りの海洋が眼前に広がっていた。その広大さを目の当たりにするだけで、セシルは少し目眩がした。 (大丈夫……大丈夫……)  壊れた携帯を再び握りながら、セシルは一息に牛乳を飲み干した後、海岸を歩き始めた。最初は海岸沿いに広がる道路の上を歩いていたが、数分ほど歩くと波打ち際に降りれる階段があったので、セシルは少し迷ってそこを降りた。  一段、また一段と階段を降りる度に潮の香りが強くなる。波の音も大きくなったような気がした。階段を一番下まで降りると、砂浜が続いている。  硬いコンクリートから柔らかな砂へと感触が変わった瞬間、セシルは無意識に安堵した。足裏の感覚は、故郷で幾度となく踏みしめたものに似ていた。  海を越えた先にある故郷を思い浮かべながら、セシルは出来る限りゆっくりと歩を進めていく。故郷のものと少しだけ似ている湿った砂、セシルが踏む度に、かき分けられた粒が白く輝く波の飛沫と混じり合った。  顔を上げると昇り始めた太陽が眩しくセシルを照らす。思わず道路側へ視線を逸らすと、電話ボックスが見えた。  ――今日、ハルカはオフのはず。反射的にそう考えた自分を、セシルは恥じた。  でも、とセシルは思案する。昨日出会った町の人々が再び思い浮かんだ。今優先すべきは自分の小さなプライドではない。それでも、これではセシル自身の為に彼女を利用するようで嫌だ。悩みながらもセシルは電話ボックスの前に立った。  時計を見ると朝の六時だった。おそらく春歌はもう起きて朝食を作っている頃だろう。  また無意識に携帯を握ろうとしてセシルがポケットに手を入れた時、指先で硬貨が触れ合う音がした。掴んで取り出すと、七十円が朝日を反射して鈍く光る。自販機で牛乳を買った時の釣銭だった。  『待てば海路の日和あり』と、レンが教えてくれた言葉を、セシルは内心で反芻した。 「今、そうすべき機会だということでしょうか」  誰に問いかけるでもなく呟いても、波音が絶えず響くばかりだった。セシルは顔を上げると、勢いに任せて電話ボックスの扉を開いて硬貨を全て投入口に入れた。  二回、呼び出し音が鳴る。あと一回鳴らして切ろうと、セシルが思った瞬間、柔らかな声が届いた。 「はい、七海です」 「早朝にごめんなさい。セシルです」  迷いながら口を開いたからか、セシルの声は暗かった。春歌が電話口で少し息を呑む音がする。彼の異変に気づいたらしかった。 「誰かの携帯お借りしているんですか?」 「公衆電話を偶然見つけたのです。少しでもアナタと話したくて。……ごめんなさい、折角のオフに」 「全然……! しばらくセシルさんとお話出来ないと思っていたので、すごく嬉しいです」 「よかった」  耳元で彼女の声がするだけで、セシルの表情は少しずつ綻んでいく。電話をするまで抱き続けた思案も今は遠くに感じられた。 「今は××町でロケされているんですよね。景色が綺麗って聞きました」 「ええ、景色も人々の心も美しい場所です。この公衆電話からも水平線が見えますよ」 「きっと素敵な町なんでしょうね。オンエア絶対に拝見します」  電話口で明るく弾む春歌の声を聞いていると、セシルは全身がゆっくりと温まるのを感じた。今、この場所に流れているのは何一つ欠ける物がない満ち足りた時間だった。 「ありがとう、ハルカ。情けない話ですが、アナタと話しているとワタシの感じている不安がとても小さなものに思えます。立ち向かう勇気が湧いてくる。アナタのおかげですね」 「それは違うと思います」 「……そうでしょうか」  はい、と春歌の声がまっすぐにセシルの耳へと届く。 「その勇気はセシルさんがきっと元々持っていたんです。だって、最初の日もセシルさんは一人で頑張っていたと思うから。わたしはセシルさんが気づくお手伝いをほんの少ししただけ」 「ワタシが持っていたもの……」 「電話、ありがとうございます。セシルさんならきっと大丈夫です。頑張ってくださいね」 「ありがとうございます。アナタと話して良かった」 「わたしもセシルさんと話せて嬉しかったです」  その後、別れの言葉を告げている間に、硬貨が切れたのか電話は切れてしまった。  セシルは深く息を吐くと受話器を置いて外に出た。潮風が新鮮な朝の空気を運んでいる。  それを吸い込みながらセシルは電話口での春歌や、楽屋でのレンの助言を思い返していた。 「……きっと、一人では気づけなかった」  セシルはそう呟くと、力強く歩を進めた。遠くには集合し始めているスタッフ達の姿が見える。  美しく輝く海が、セシルの横顔を照らす。その表情は穏やかだった。

ライエモのストーリーで臨海公園でも怖いから春歌ちゃんに一緒に来てほしいと言っていた愛島君から連想した話です。

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