ありふれた旅を貴方と

 忙しない毎日の中でも、セシルと春歌は休日の過ごし方について何一つ不満はないと思っていた。家で互いの顔を見ながら穏やかに過ごす時間も、周囲に誰一人いない自然の中で過ごす時間も、彼等にとっては愛おしいものだった。 「おはようございます、セシルさん」 「……ん、おはようございます。My Princess」  セシルが目を開くと、春歌が顔を覗き込んでいた。まだ眠たげな顔をしている彼女を抱き寄せると、春歌は無邪気な笑い声を上げた。 「今日は朝からセシルさんに会えて嬉しいです」 「ワタシもです。一緒のオフは本当に久しぶりだから……」  春歌はセシルの言葉に頷くと、細い腕に力を込めて抱きしめ返した。互いの体温を感じながら、二人は暫し離れられずにいた。このまま数時間過ごしてしまうのも一つの贅沢かもしれない、とセシルが思い始めた頃、春歌は名残惜しげに身を起こした。窓の外は音も立たない程の細かな雨が降り続いている。 「結局止みませんでしたね」 「今日は一日降り続くそうですよ。出かけるのはまた別の日にしましょうか」 「はい……」  そう呟くと春歌は小さく肩を落とした。次の休みは二人で出かけたいとは折に触れて話していただけに、セシルも何度も窓の外を見た。だが、いくら眺めていてもどんよりとした曇り空と僅かに勢いを増した雨がガラスに映り込むばかりだ。 「でも、家で過ごすのも楽しいですよね。セシルさんは朝ご飯は何が食べたいですか?」  ちょっと凝った物でも作りましょう、と春歌は両手を強く握った。もう先程まで彼女を覆っていた小さな落胆はそこには無かった。 「それなら、セパ・ゼルデが食べたいです」 「ふふっ、そう言うと思ってもう昨日仕込んであるんですよ」 「本当ですか!? 楽しみです」 「パンも買ってありますから、セシルさんはそれを温めておいてください。その間にわたしは仕上げをしちゃいますね」 「分かりました」  手早く着替えを済ませると、セシルと春歌は手を繋いでキッチンへと向かった。セシルがパンをトースターへ入れている間に、春歌はスープの味を整える。十分もしないうちに朝食の準備は出来た。よく冷えた牛乳とサラダ、温かいセパ・ゼルデに焼けたパンがテーブルに並ぶ。いただきます、と声を揃えると、二人はスプーンを手に取った。 「ああ、やっぱり春歌のセパ・ゼルデはおいしいですね。ゼッピンです」 「美味しく出来てて良かったです。今日のは外国産の豆を使ってみたんですよ」 「そうなのですね! 言われてみればいつもと味わいが違うような気がします」 「やっぱりアグナ産の食材はなかなか見つからなくて……。いつか本場の味が再現したいんです」  春歌もスープを啜ると深く頷く。 「ハルカはまるで職人のようですね」 「凝り性なのかもしれません。もう一回本場の味が食べられたらなぁ……」  以前二人でアグナパレスへ訪れた時のことを思い出しているのだろうとセシルはすぐに理解した。その時は緊迫した状況の解決の為だったこともあり、穏やかに過ごせた時間は少なかった。 「またアナタを連れてアグナパレスに戻れる日が来たら、今度はゆっくり観光でもしたいですね。食べ物もそうですが、案内したい場所が沢山あります。神殿に、市場に、どこまでも広がる砂丘……」  セシルの言葉に呼応して、春歌の目の前に情景が広がる。焼けるような日差しと風、溢れる音楽、まるで違う言葉、訪れた回数こそ少ないが、だからこそ一つ一つの記憶は鮮明だった。 「そんな日が来るのが楽しみです。……そうだ! セシルさん、これからのことなんですけど」 「アナタが言いたいことがなんとなく分かった気がします」  セシルが数年前に公開されたロマンス映画の名前を口にすると、春歌は大きく頷いた。 「そうです! 最近その映画のDVDを買ったので、食べ終わったら一緒に見ましょう」 「喜んで。家での良い過ごし方だと思います」 「それに、きっとセシルさんの役に立つと思うんです。新しい映画の出演決まったんですよね?」 「はい! ……ん、ハルカは何故それを? 発表はまだのはずですが」  セシルの出演が決まっているのは、海外でのロケを中心としたロードムービーだった。気鋭の新人を集めた年齢層の若い制作陣の中でセシルは主役でこそ無いものの、重要な役として抜擢されていた。春歌は側に置いてあった鞄から、セシルが持っている物と同じ企画書を取り出すと彼へと見せた。 「実はその映画の音楽チームにわたしも参加することになったんです。だから映画のBGM作りの参考にもなったらいいなって」 「わぁ! もっと早く言ってくれればよかった。アナタの仕事にも良い刺激になればいいですね」  その頃には空になった皿も増えてきたので、いそいそと片付けを終えた二人は手を繋いでリビングへと移動した。部屋の外は重い雲に覆われ未だに雨が降り続いている。日光が入らず薄暗い部屋を敢えてそのままにして、DVDを再生すると画面だけが煌々と光った。そこに映っているのは照りつける日差しと雲一つ無い青空だった。  そのロマンス映画はアグナパレスでロケが行われた数少ないものだった。ストーリーこそありふれた物だったが、それは周囲の風景をより美しく映す為に奇をてらわなかったのだろう。日差しを照り返す果てしない砂の大地に、オアシスに流れる水の煌めき、街の雑踏さえも活気と熱を余すところなく伝えていた。春歌がふと視線を向けると、セシルは画面を超えて遠い場所を眺めるような目をしている。映画のBGMに合わせてセシルが小さく口ずさんでいるのは、春歌の知らない異国の歌だった。 「とっても面白かったですね」  エンドロールを眺めながら春歌が呟くと、セシルも深く頷いた。 「そうですね、本当に面白かった。とても参考になりました」 「わたしもです。この映画はアグナパレスの民謡もBGMに使われているんですよね」 「ええ。とても懐かしかった。街で見かけた老人達がよく歌っていたものです」 「やっぱり現地の旋律を取り入れると雰囲気が出ますね。わたしもよく研究しなくちゃ……」  春歌は本棚から映画のパンフレットを取り出すと、慈しむように開いた。セシルも側によってそれを覗き込んだ。映画で描写された雄大な情景が見開きで掲載されているのを見て、春歌はうっとりと息を吐いた。 「わたし、この映画が公開された時は本当に嬉しかったんです。映画館で見た時なんて、画面が大きくて本当にアグナパレスに行ったような気持ちになりました。風景にとっても迫力があって……、だからセシルさんと一緒に見られないかなってずっと楽しみにしてました」 「ワタシもです。映画館には一人で何度か見に行きましたが、今日アナタと一緒に見ることが出来て嬉しかった」 「ふふっ、今日が雨で良かったのかもしれませんね」  春歌はパンフレットを閉じると、本棚へとそっとしまい直した。セシルと春歌は手を繋いでソファーへ座ると、静かな余韻に身を任せていた。 「映画館でも一緒に見ることが出来ればもっと良かったのですが。素晴らしい映画だっただけ余計にそう思ってしまう」  セシルがそう口にすると、春歌は笑いながら首を振った。 「だめです。誰かに見つかっちゃいますよ」  そうですね、と返事をしながら、セシルは春歌の手を優しく握りしめた。彼女には二人で映画館という選択肢は最初から存在していない。今日晴れていたら出かけるはずだった場所も、人目がないような田舎町の港だった。それは二人の関係を守る為なのは、セシルも理解している。だが、それに伴うもどかしさを彼はなかなか飼い慣らすことが出来ずにいた。ありふれた恋人達のようなデートを愛する人へと贈りたい。だが、その願いを無邪気に口に出せるほどセシルは子供でもなかった。 「今日は……本当に楽しかった」 「わたしもです。次は何をしましょうね」  セシルは明るく笑う春歌を引き寄せると、その細い躰を強く抱き締めた。春歌の腕がゆっくりとセシルの背に回される。広い背を優しく擦りながら、彼女は穏やかな微笑みを絶やすことはなかった。  つかの間の休日は瞬く間に過ぎ、セシルと春歌は互いの仕事に全力を尽くす日々へと戻った。セシルの映画撮影は順調に進み、春歌のBGM制作も大きな問題は起こらなかった。無事に撮影と制作を終えた時には数ヶ月の時が流れており、セシルのクランクアップの日には二人だけでささやかなお祝いをした。いつもより良い塩を使ったおにぎりを食べたり、簡単なセッションをしたり、話せる範囲で撮影の話をしたり、そんなことをしているだけでも瞬く間に夜は更けていく。 「映画の完成が楽しみですね」  ベッドへ横になったセシルは少し眠たげな声でそう呟いた。 「ええ、あとは編集を待つばかりです。きっと素敵な映画になっていますよ」  そう答える春歌の声も同じくらい眠気が滲んでいて、セシルは息だけで軽く笑う。いつかの休日よりも少しだけ分厚くなった掛け布団を、セシルは春歌の肩へと掛けた。窓の外の木葉の色はまだ青々としていたが、流れる風は少しずつ次の季節へと変わりつつあった。  それから暫く経ったある日、二人が暮らす部屋へ二通の封筒が届いた。〝関係者限定試写会〟と書かれたそれを開けると、招待状が一枚ずつ入っていた。 「やりました! ちょうどオフの日です」 「すごいです! わたしもその日オフで……」  二人は顔を見合わせると、手を取り合って喜んだ。それぞれ参加の連絡をすぐに送り、それからの数日間で顔を合わせた同期達に何か良いことがあったのかと聞かれたりもした。  当日は万が一にも関係が露呈することがないように、会場までの道はそれぞれ別のルートを選んで、二人は小さな映画館へと向かった。  先に会場に辿り着いていたのは春歌の方だった。隅の方で佇んでいる彼女を見つけると、セシルはすぐにそちらへと向かった。 「ハルカ! ここで会えるなんてうれしいです」 「こんにちは、セシルさん」  あくまで同期、パートナーという姿勢こそ崩さなかったが、二人の視線は密接に絡み合って離れることはなかった。これから同じ空間で、映画館で、それも相手の仕事の成果まで見ることが出来る。二人にとってこれ以上の喜びはなかった。 「そろそろ時間ですね。アナタの席はどこですか?」 「それが……、自由席らしいです。決まっていなくて」 「えっ、そんなことがあるのですか?」 「今日は本当に関係者限定の内輪な試写会だからみたいです。まずはスタッフだけで完成の喜びを分かち合いたいだとか」 「そう言われれば、報道関係者も来ていないですね」 「そうなんです。まず一番に映画を楽しむべきなのは僕達だって、監督さんの意向らしいですよ」 「面白い人ですね」  撮影中に監督と関わることが多かったセシルは腑に落ちる部分があったらしく、大きく頷いていた。春歌は左右にそっと視線を向け、周囲の人々が席に向かい始めているのを確認すると、口を開いた。 「それでですね、セシルさん。その……」 「ええ、せっかくの機会です。一緒に見ましょう」 「はい!」  そのまま二人は連れ立って席に移動すると、中央から少し後ろの席に並んで腰掛けた。人で一杯になった会場はすぐに暗くなり、映画が始まった。それは遠いところにいる恋人に会いに行く一人の男の話だった。古い時代設定で、主人公である男は船や汽車を乗り継いで進んでいく。その行く先々で出会う謎めいた青年がセシルの出演する役どころだった。セシルが登場して台詞を話しているシーンで、春歌とセシルは互いに目配せを送った。旅が進むにつれて辺りの景色は次々に移り変わっていく。主人公の心情や場所に寄り添った音楽もそれに花を添えていた。何曲かの旋律を聴いた時、セシルはすぐに作曲家の顔を思い浮かべた。そっと様子を覗うと、春歌もセシルに目線を送っており、二人は視線を合わせて小さく頷いた。  大画面に映し出される異国の町並みは、まるで主人公と共に旅をしているかのように感じられた。恋人への想いだけを抱えて進む主人公に誰もが心を動かされる。その強い想いはセシルが演じる青年と何度も会話を重ねることでより鮮やかに描き出されていった。ストーリーが進むにつれて、セシルと春歌は互いの存在を確かめるように手を繋いでいた。握りしめた熱からは静かな感動と高揚が伝わっていく。  苦難に阻まれていた恋人達が遂に再会を果たす山場のシーンで、春歌の頬に涙が伝っていた。周囲からも鼻を啜る音が聞こえてくる。映画の内容はもちろんだが、周囲にいる沢山の人々と同じ感動を分かち合っているという事実も、セシルの心に大きく響いていた。  エンドロールが終わって会場が明るくなる前に、二人はそっと手を離した。 「いい映画でしたね」 「この映画をセシルさんと見ることが出来て、本当に良かったです」  目を輝かせる春歌を見て、セシルは満足そうに微笑んだ。その後、監督やスタッフ達への挨拶を終えて二人は人気の無い道を少しの間並んで歩いた。その最中にも二人は映画の感想を夢中になって語り合った。 「なんだか今とても楽しいです」  無邪気に微笑みながら呟いた春歌の言葉にセシルは深く頷いた。言葉にこそしなかったが、偶然でも手にすることが出来た普通の恋人達のようなひとときが深い喜びを生み出している。 「まるでわたし達も一緒に旅をしているみたいでした」 「ええ、ワタシも同じことを考えていました。映画を見ていた皆が一緒に旅をしている。そう感じさせるような力がある映画でした」 「……セシルさん」 「どうしました?」  春歌は足を止めると、愛おしさに満ちた瞳でセシルを見つめた。 「わたし、本当に幸せなんです。普通の人達みたいに過ごすことはなかなか出来なくても、たまにこういう幸せな時間があります。それに多分、わたし達も加わって出来たこの映画はきっとまたわたし達を遠くに連れて行ってくれる。それだけで充分なんです」  そう話しながら春歌は言葉通り、幸福に満ちた笑みを浮かべた。それは本当に何一つ不足を感じていない表情だった。 「ハルカ……、ありがとうございます。今度は家で、二人で見ましょう。……また、旅に出ましょう」  春歌は深く頷くと、二人はそのまま言葉少なに歩き続けた。道は大通りに差し掛かり、小さく手を振るとそれぞれ来た道を辿って帰っていく。家での再会まで、彼等の心を満たしたのは確かな幸福と、遠い異国の情景だった。

セシ春に映画を見せることが好きです。

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