レポート
僕を包み込んだその手は、思っていたより温かかった。
愛島セシルというアイドルを僕が知った時、もうセシル君はファンと直接触れ合うようなイベントなんて滅多に出ないトップアイドルだった。それは僕が男のアイドルに興味がなかったせいだし、ネットの付き合いで行ったクリスマスライブが無ければまだ知らなかったかもしれない。けれども僕は出会ってしまった。運命っていうのは本人の嗜好とか意思とかそんなものなんて関係なく降りかかるのだから。
愛らしさと格好良さを自在に振りかざすパフォーマンス、切なくも情熱的な歌声、エキゾチックな外見、全部の根底にある気品。セシル君の魅力の一つ一つが僕の心を鷲掴みにして離さなかった。信じられなかった。この世にこんな素敵な子がいるなんて。そこからはもう夢中だった。グッズも、CDも給料の大半を注ぎ込んで買い漁る日々が僕を待っていた。仕事から戻ってDVDを流しながら、セシル君が存在していることに感謝した。でも、僕がファンになってからセシル君の人気は高まるばかりでライブもイベントも、CDを何百枚積んでも生でセシル君に会う機会を掴むことは出来ずにいた。ファンレターなんて何枚送ったのか分からないくらい想いは伝えているけど、直接想いを伝えたい、一目会いたいって思うのはファンとして当然だろう。正直に言うと、僕はセシル君に心の底から救われていた。
そんな中、握手会が開かれるというニュースが発表され、ネットのファンコミュニティは蜂の巣を突いたような大騒ぎになった。当然僕もそんな蜂の一人で、仕事先でこの発表を知った時その場で失神しなかったのが奇跡みたいだった。行きたい、絶対、命に代えても。家中の金を掻き集めて、バイトを入れて、生命保険も解約して持っている金を全部抽選券に注ぎ込んだ。毎日神に祈った。――そして僕の願いは聞き届けられた。スマホに表示された当選の二文字を見ながら、僕は床に蹲り、静かに泣いた。そんな僕を祝福するように待受のセシル君も微笑んでいた。
それから逸る気持ちとは裏腹に鈍足で日々は過ぎ、集められた幸運な僕達は専用のバス(!)に揺られて会場まで向かった。僕以外男は殆どいない。全力でお洒落したんだろう可愛らしい女の子達に混ざるのが気にならないとは言わないけれど、もうそんなことはどうでも良かった。恐らく皆付けているからか、セシル君のプロデュース香水の匂いが狭過ぎる会場に充満してて、そっちの方がクラクラした。列に並び、スタッフからの注意事項を聞きながらファンレターを握る。会えるんだって実感が今更湧いてきて、頭がおかしくなりそうだった。
満を持してセシル君が登場したその時から、僕の記憶はあまり無い。満ちる歓声とお礼の言葉、優しい笑顔だけが目に焼き付いていた。握手の時間は一人五秒。だけど、もうセシル君に掛けようと思っていた言葉は全部忘れてしまった。いる。あの子がいる。それだけで冷静さなんて保てる訳がなかった。列が進む度に手の震えが止まらなくて、今にも泣き出しそうだったし、何なら泣いてるファンもそこかしこにいた。
もうあと少しで僕の番になった時なんて死なないのが不思議なくらいだった。セシル君の声まで聞こえる。雑誌で穴が空くまで見たけど本当にあの外見そのままで、本当に綺麗でかっこよくて、同じ人間とは思えなかった。前の女の子がはけていく。
セシル君の瞳が初めて僕を映した。
あのっ、クリスマスライブの時に初めて見て、それからずっと、ずっと好きで…………ここまで言いながら訳が分からなくなってファンレターを渡しながら視界が滲んでいくのを感じていた。駄目だ。折角のセシル君なのに。
「ありがとうございます! とても嬉しいです。また一緒にクリスマスを過ごせることを願っています」
その言葉は僕の耳にはっきりと届いた。僕を包み込んだその手は、思っていたよりずっと温かかった。その時、周囲の喧噪も、人々も、みんな消えた。世界には僕達二人だけだった。永遠だけが、そこにあった。
スタッフに導かれて僕が離れる間もセシル君は手を振ってくれた。僕は頬を伝う涙も拭けずに手を振り返した。もう離れられないという確信と絶対の幸福だけが其処にあった。 セシル君が退場する時も、家でまたDVDを見ている時も僕はあの子に手を降り続けた。いつまでも、いつまでも。
善良な人。
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