並行世界に降る流星

「返事、考えてくれた?」  休憩スペースで飲み物でも購入して帰ろうとしていた矢先、その声はセシルの耳に届いた。その時、仕事を終えたセシルは家に戻ろうとテレビ局の廊下を歩いている最中だった。時刻は既に深夜と呼べる時間帯で普段ならば人影などある筈はない。しかし薄暗い中で煌々と自販機が照っているその場所には、二つの影が見えていた。 「……はい」  あと三歩、足を進めればセシルの姿は誰かの視界に入る。恐らく秘密の話をしている彼等はきっと会話を止めるだろう。それなのにセシルの足は根が生えたようにその場から動かなかった。呼び掛けに答えている女性の声は、紛れもなく春歌のものだったのだから。  今日は遅くなるかもしれないと春歌から朝に告げられたのをセシルはすぐさま思い出した。その表情は普段より少しだけ沈んでいるように感じられて、聞いてはみたものの、春歌は理由を答えなかった。望まれていないならとその場で深く聞かなかったことをセシルは後悔していた。  春歌に声を掛けているのは他の事務所で最近売り出されている歌手の男だ。高い背に恵まれたスタイル、宣伝に耐える実力を持ったその男の歌はセシルも何度か耳にしたことがあった。何故そんな男が春歌に声を掛けているのか。パートナーである自身に関することかともセシルは考えたが、仕事で何度か会った時も特に問題があった訳ではない。揚げ足を取るような悪質な苦情な筈もなく、寧ろあの男は周囲のアドバイスを真摯に受け止めるような良識的な人物だと、セシルは記憶していた。  だからこそ、状況から考えてあの男は春歌に何を伝えようとしているのか誰でも理解できる。春歌の答えはセシルには聞かずとも分かっているが、それでもこの状況はあまり気持ちの良いものではなかった。 「ごめんなさい。お気持ちは嬉しいですけれど……今のわたしは仕事のことしか考えられないので」 「突然の話だから僕が信じられないのかもしれない。でもこの関係は真剣に考えているんだ。重いかもしれないけど、その先のことも考えている」 「疑ってる訳ではないです。でも……ごめんなさい」 「あーやっぱり……そうなんだね」  そう言った瞬間、男は僅かに視線を伏せたが、すぐに何気ない顔を作り春歌へと向き合っていた。 「はい。……すみません」 「そんなに謝らないで。七海さんは何も悪くないよ。……困らせてしまって僕の方こそごめんね」  春歌が更に頭を下げようとするのを、男は慌てて止める。セシルはより壁際へと身を寄せた。 「答えてくれてありがとう。これからも良い仕事仲間でいてくれると嬉しいな」  その言葉を聞いた春歌は安堵したように息を吐くと、はいと小さく返事をしていた。 「ありがとうございます。今日はもう遅いので、これで失礼します」 「分かった、本当にごめんね。じゃあ、また」  春歌はセシルがいる方とは反対側へと歩いて行く。その後ろ姿が見えなくなるまで男は動くことはなかった。小さな後ろ姿が角を曲がった時、男はセシルへ視線をやると、自嘲気味の笑みを浮かべる。  気付かれていたのだと理解したセシルは壁際から漸く足を進めた。先程まで根を下ろしたようだった足は拍子抜けする程にあっさりと動いた。 「すみません。ワタシが聞くべき話ではありませんでした」 「いえ。寧ろ一番聞くべき人だったのでは? 〝パートナー〟なんでしょう、学生時代からの」 「……ええ、ですがそれは私生活に踏み込んで良いという免罪符にはなりません」  男女のパートナーという立場は少しでも気を緩めると噂に変化する。セシルは普段から用意していた言い訳を淀みなく紡いだつもりだったが、男は笑みを崩さないまま二、三度頷いていた。 「大人げない言い方をしたね。ごめん。でも君も盗み聞きしていたんだし、これでおあいこにしてくれ」  男は飄々とした調子で言うと、セシルの方へと足を進めた。若干の気まずさを感じながらセシルが道を空けると、男はお礼を言うように軽く手を振った。 「君は本当に幸運だよ……僕も、もっと早く出会っていれば」  だが身振りとは対照的に、去り際に聞いた声は酷く沈んでいた。耳に入るかどうかも分からないような呟きにセシルが反応するより早く、男は足早にその場を去っていた。   「ただいま帰りました」 「あっ、お帰りなさい。セシルさんも遅かったんですね」  作り置きしていた夕食を冷蔵庫から取り出して、春歌はセシルを笑顔で出迎える。だが、それは無理をしているが故だと、彼には理解出来ていた。昔ほど極端では無いが、春歌は精神的な動揺を隠すことが下手なのだ。だがその気遣いを無碍に出来ず、セシルは完璧な微笑を浮かべて春歌の元へと向かった。  二人で向かい合って食卓へ座り、今日あった出来事を話し合う。いつも通りの習慣に流れているのは不協和音のような違和感だった。遅くなった日はその原因になったことまで含めて話すことも多いが、当然とは言え春歌からあの出来事について語られることは無い。  だが、努めて明るく振る舞おうとする彼女が何を思っているのか、分からないセシルではなかった。だからこそ彼は春歌の話を遮り、口を開く。 「彼のことですか?」 「えっ、彼って……」 「本当は黙っていようと思ったのですが、アナタがとても悲しそうにしているので」 「……見ていたんですね」 「はい、偶然見てしまって。すみません」  春歌はスプーンを静かに食卓へ置くと、小さく俯く。 「いえ……わたしが落ち込むのもおかしな話ですよね」 「そんなことはありません。アナタはとても優しいから」 「そうでしょうか……」  セシルは春歌以上に彼女の困惑について理解していた。自分が愛されていないと告げられることの痛みを、春歌は少しの罪悪感と共に思い浮かべているのだろうと想像することはセシルに取ってそう難しいことではなかった。 「どうしようもないことは分かっているんです。いろんな事情がありますし、何よりわたしがあの人のことを愛せないんです。……ごめんなさい、セシルさんにしていい話ではありませんよね」 「いいえ。そんな気持ちまで打ち明けてくれる方がワタシは嬉しいです。嬉しいと言うと少し変な言い方ですが」  春歌の煩悶は彼女の美質故だとセシルは理解していた。あの男が惹かれたのも彼女のそんな内面に違いない。言葉には出さないものの、彼女にこうして惹かれている人間をセシルは幾人も知っていた。そんな中で運命がセシルに微笑んだことを思わずにはいられなかった。その瞬間、ふとスープをすくっていたセシルの手は止まった。  セシルと春歌が出会ったあの時に周囲、否、世界には誰もいなかったも同然だった。もし、と思いかけてセシルは首を振る。どんな運命であれ自分達は惹かれ合う筈、そう彼は信じていた。 「萎れてきましたね。新しいのに入れ替えないと……」  春歌の声にセシルが顔を上げた時、食卓に飾られていた薔薇が花びらを落としていた。 「ワタシが明日花屋に行きます。次は秋の花にしましょう」 「そうですね。残念ですけど時期を外れた花はあまりもちませんから」  そうして二人は食卓を片付け、早々にベッドへと入った。いつものように手を繋いでも、体温以上に伝わるものが無いような気がしていた。こんなことは初めてだった。 「おやすみなさい、良い夢を」 「おやすみなさい。My Princess」  言葉少なに思いを交わして、恋人達は眠りへと堕ちた。    けたたましい音を立てて目覚ましが鳴り響く。セシルは弾かれるように身を起こした。眠い目を擦りながら枕元へと手を滑らせてスイッチを切る。普段は携帯の目覚まし機能を使っている筈だが、何故かセシルを起こしたのは古典的な目覚まし時計だった。 「おはようございます……ハルカ?」  その時セシルは目を覚ました部屋自体が異なっていることに気付いた。必要最低限の家具しか備えられていない簡素なその空間には見覚えがある。本来であれば二人部屋である其処にはセシル一人しかいなかった。慌てて視線を動かすと傍らには丁寧に畳まれた服が置いてある。  一先ず袖を通すと真緑のジャケットは思い出のままにセシルを包んだ。身に着けていた期間こそ短くても忘れる筈の無いスタンドカラーのシャツ、記憶そのままの間取り。早乙女学園寮で、セシルは制服姿で立ち尽くしていた。 「ドッキリ……にしては」  それとなく様子を伺ってもカメラが仕掛けられている様子は無い。扉の隙間から漏れてくるざわめきにもスタッフらしい声は混じっていなかった。うら若い学生達の声ばかりが辺りには響いている。  部屋を出ると皆セシルに挨拶をして歩いて行く。それはまるでセシル自身が生徒であるかのような反応であり、アイドルの先輩である愛島セシルが其処にいるというものでは無かった。首を傾げながらも頭を下げて応えた時、セシルにある違和感が去来した。通り過ぎた生徒達の顔には確かに見覚えがある。何度か行った学園訪問で見かけた生徒達という訳ではない。セシルに声を掛けた彼等は、もう何年も前の記憶にある生徒達そのままだったのだ。  その違和感は建物を出た瞬間に確信へと変わった。肌を撫でる温かな風、学園中に咲いている桜の花、季節は間違いなく春だ。 「え……?」 「あっ、セシルだ! おはよう!」 「愛島か、おはよう」 「おはようございます。セシル君」  呆然としているセシルに声を掛けた三人を見た時、セシルは思わず絶句した。音也、真斗、那月の姿は見慣れたものとは違う。重ねた経験は失われ、代わりに未来への期待で満ちている学生時代そのままの面差しをしていた。 「どうしたの? ぼーっとして」 「いえ、少し驚いていて……」 「え。何で?」  不思議そうに首を傾げる音也の背後をある人影が通り過ぎた。その人物を見た瞬間、セシルは音也を退けて、衝動のままに駆け寄った。 「ハルカ! アナタは覚えていますか?」 「へ!? えっ、あのごめんなさい。今日のテストならまだ覚えたてで……って貴方は?」  セシルの目の前に現れた春歌は、彼のことを呆然と見つめた。やや幼い顔立ちに大きな目を丸くしている彼女に現れているのは驚きばかりだ。 「ワタシです。愛島セシルです。何も覚えていないのですか?」 「ごめんなさい。まだわたし、クラスの人の名前もよく覚えられてなくて……。セシルさんですね。今度こそ忘れないようにします」  申し訳なさそうに微笑んでいる春歌を前にして、セシルは何も言えなかった。彼女は何も嘘を吐いていない。本当に何も覚えていない。そもそも彼女はセシルと出会ったのは今日が初めてなのだ。  ちょうどその時、彼女の友達が声を掛け、春歌はセシルに軽く頭を下げると其方へと駆けていった。 「へぇー、セシルって結構積極的なんだ。良い子だもんね、七海は」 「少し古典的な声のかけ方ですけどインパクトはあったと思いますよ」 「ああ。だが、その、もう少し節度を持った方が良いと思うぞ」  Aクラス所属の友人達の会話を耳にしながら、セシルは一つの結論に辿り着いていた。決してドッキリ等簡単なものではない。セシルは記憶に無い学生時代の只中にいるのだ、と。  セシルは知り合いの学生達にそれとなく聞いて回ったが、誰一人セシルのいた現代について覚えている者はいなかった。同時に聞こえてくる内容から現状が見えてくる。セシルは留学生という形でこの学園に正式な形で入学しているらしかった。それは過去の日々に狂おしいほど望んでいた立場だったが、それはセシルと春歌が歩いてきた道は全て消されていることと同義でもあった。  この世界でセシルと春歌の関わりは無いに等しい。〝クップル〟は存在せず、慰めが必要なほど彼女は学園で孤独ではなかった。その才能を正しく輝かせている春歌は良き友人達に囲まれて充実した日々を過ごしていた。  そうして何日か過ごす中で、この世界も微妙に変わっていくことにセシルはすぐに気がついた。  春歌のクラスメイトとして自身が過ごす日もあれば、別のクラスの人間として存在することもある。クラスメイトになる人物も、授業のカリキュラムもバラバラで当時の記憶通りである方が珍しかった。そんな不安定な世界でも一度は望んだ時間が流れる生活はセシルにとって眩さを伴って映った。何気ない授業、運動会、唐突に現れる学園長の気まぐれ、文化祭、あらゆる時間を一度に流し込んだような日々はとても奇妙だった。  そして彼女のパートナーとして傍らに立っている人間も万華鏡のように切り替わり、そのことに違和感を抱いている人間はセシル以外に誰もいない。セシルがパートナーである日もあれば、音也であったり、翔であったり、レンであったりした。ただ一つ何も変わりはしないのは、誰が隣に立っていても彼女は素晴らしい曲を作り上げ、彼等は互いに相応しい存在になっていくことだけだった。  最初の方こそ、そんな状況にセシルは嫉妬を募らせることもあった。間に入ろうとして何度不思議そうな顔をされたか分からない。眠りにつく度に、明日隣にいるのは自分であってほしいと祈らずにはいられない。だが、巡り会う春歌がパートナーに向ける微笑みを見守るうちに、彼女の幸せについてセシルは考えずにはいられなかった。  一番望んでいるものは、七海春歌の幸せだ。そしてそれは誰が隣にいようとも成立してしまうものなのだ。隣に立つ存在がセシルではなくとも。幾重にも見せられる可能性の中で、セシルはそう結論せざるを得なかった。  それでも隣に立ちたいと願うのはセシル自身のエゴに他ならない。他の存在に向けられる愛を見せられる度に胸が焼ける。充足した過去の記憶と彼女への想いで窒息してしまわないのが不思議な程だった。    その日は、セシルがパートナーとして存在出来る日らしかった。隣の席に春歌が座った瞬間、彼はどうしようもなく胸を高鳴らせた。 「今日は授業が終わったら曲の打ち合わせですね。どこでしましょうか?」 「レコーディングルームにしましょう。ワタシがもう予約していますから」  セシルがそう告げると、春歌は流石ですねと呟いて顔を綻ばせた。少し幼い彼女の顔をセシルはただ黙って眺めていた。  放課後、セシルはさりげなく春歌の手を引いて地下へと降りていった。春歌もそれを拒みはしない。 「セシルさんはこのレコーディングルームが好きなんですね」 「……ええ」  頼み込んで開けて貰っていることをセシルは言い立てはしなかった。ここは普通の学生生活を送っていれば、使われない場所なのだから。――学園が隔絶した場所にでもならない限りは。  この世界では思い出すら存在しない場所に春歌と来ることに、何の意味があるのかセシル自身にもはっきりとは分からない。二人で痕跡を探した記憶も、愛を確かめ合ったことも、目の前の春歌は知る由も無いのだから。 「――さん、セシルさん。大丈夫ですか?」 「えっ、あ。ごめんなさい、ハルカ」 「本当に大丈夫ですか?」  夢想から戻ったセシルの顔を春歌はそっと覗き込む。その無防備さにセシルは思わず身を縮めた。 「出過ぎた真似をしてごめんなさい」 「いえ、そんなことは……」  そっと身を離した春歌に、セシルは何も言うことが出来なかった。所々埃がかった部屋には沈黙だけが流れている。それに終止符を打ったのは春歌だった。 「セシルさん、この場所に来てからずっととても悲しそうな顔をしている気がします。どうしてでしょうか?」 「っ、それは…………」 「セシルさんが辛いのはわたしは嫌です。せめて場所を変えるとか……」  セシルが思わず顔を上げると、春歌はすぐに口を閉ざした。彼の瞳に浮かぶ感情が並大抵のものとは思えなかったのだ。 「アナタはとても優しいのですね。どんな時でも……」  その瞬間、セシルは自身の愚かさに気がついた。春歌が場所を変えるように言ったのもセシルのことを思えばこそと分かっている。彼女の優しさが何より愛おしかった。見知らぬ子猫を受け止めるように、巻き込まれた事態に正面から向き合えるように、春歌の美質は多くの存在に降り注いでいる。それは世界が多少色を変えようと何一つ変わりはしないのだ。  そんな彼女だったからセシルは今、この瞬間も命を繋ぎ、彼女を想い続けていられる。自分が彼女を幸せにしたいという思いを抱くのも、彼女が自分を愛した事実が一欠片残っているからなのだ。それが分かっただけで、もう何も必要はない。 「すみません、ハルカ。場所を変えましょう」  過去も今も出来ることは何一つ変わらない。目の前の春歌が幸せであるよう導くこと、ただそれだけだとセシルは確信していた。普段と変わらない微笑を浮かべて立ち上がった瞬間、春歌はセシルの袖を掴んだ。 「待ってください。もう少しだけ」  完璧な筈の微笑に春歌は深い孤独を見た。どうしてそんなことを微笑から連想したのか、彼女自身理解していなかったが、セシルの瞳に映る澄み切った喜びの中に深い寂しさを見つけてしまった。ふと、そんな孤独に触れたいと春歌は過去に願ったことのあるような気がした。誰も気付かないような微妙な違いに気付いたことも。 「わたしの毎日はいろんな偶然、いえ、運命って言った方がいいんでしょうか、そんなものとわたし自身が決めた選択に支えられている気がするんです。……その先にはいろんな毎日があるけどきっと、全部とても幸せで……」  セシルは僅かに目を見開いた。思うより先に口を突いた言葉に、春歌自身が一番驚いていた。それと同時に様々な情景が彼女の前に浮かんでいく。屋上の情景、雨の降る中庭、薔薇が舞うプール、薄暗い教室、そして小さなレコーディングルーム。 「わたし達が出会ったのは、本当に奇跡みたいなことだと思います。だから――」  二人が最後に見たのは、互いの微笑みだった。二人の間の距離が少しずつ離れていくのが感じられる。だが彼等は何も怖くなかった。 「おはようございます、セシルさん」 「ハルカ。おはようございます」  堅く繋いだ手の感触を確かめ合うようにして、二人はベッドから身を起こした。 「長い夢を、見ていた気がします」 「そうですね。わたしも……」  顔を見合わせた二人は互いの姿を瞳に映した。そのまま存在を確認するように恋人達は強く抱き合った。 「アナタはきっと幸せになれます」 「そうですね。でも今のわたしは、セシルさんと歩いたわたしだから」  幾重にも重なる可能性の中で、〝今〟が選び取られた理由は運命によるほんの僅かなさじ加減の違いに過ぎない。それでも二人で歩んだ道は、美しい一筋を描いていく。それだけはどんな運命でも動かせない確かな事実だった。

普通の学生生活送ってたらセシ春は付き合っていたのかという疑問を深掘りした話。

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