愛の証
「あれ……?」
洗面所で鏡を覗き込みながら、春歌は首を傾げる。そこに写っている春歌の首筋は所々赤く腫れていた。
「ハルカ、どうしました?」
「いえ。大したことではないんです」
洗面所に入ってきたセシルは鏡を見て、春歌が何を見たのか納得したらしい。すぐに彼女の髪を払いのけると、赤くなった箇所に手を添えた。
「これは……」
「昨日も暑かったですし、虫刺されかなって」
「ああいえ、これは違いますよ。ワタシはアナタに謝らなくては」
「え?」
セシルは微笑を浮かべながら言葉を続ける。
「昨日、少し強くし過ぎましたね。アナタの柔肌に痕を付けてしまった」
ごめんなさい、と言いながらセシルは春歌の額に軽く口付けた。その瞬間、春歌はようやく首筋の痕が何なのかを理解した。春歌は慌てて再び鏡を覗き込む。セシルから付けられた痕は、白い肌の上で未だに存在を主張していた。
「こ、これが、あの……初めて見ました」
「本当にすみません。痛くはありませんか?」
「はい。大丈夫です」
「では何故そんなに頬を赤らめているのですか?」
「え⁉ ええと……それは……」
「ふふっ、意地悪を言いましたね。すみません、アナタがあんまり可愛らしいから」
楽しそうに笑うセシルの声を聞きながら、春歌はしげしげと鏡を覗き込んでいる。セシルから与えられた口付けや昨夜の夢のような時間が痕としてまだ肌の上に留まっているかのようだった。
「これ、どれくらいで消えちゃうんでしょう」
「ワタシもよく知りませんが、一日二日で消えると聞いたことがあります」
「そっかぁ……」
鏡の前で肩を落とす春歌を、セシルは不安げに覗き込んだ。
「ハルカは今日オフでしたよね? 仕事には影響がないと思ったのですが……」
「はい、それは大丈夫です。いざとなったら服で隠れる位置ですし。そうではなくて、たった一日で消えるのが少しもったいないなあって」
「ハルカ……」
春歌は顔を上げると、覗き込んでいるセシルの頬に手を添える。彼の瞳も鏡のように輝き、春歌の姿をはっきりと映していた。
「セシルさんがわたしに付けてくれたんです。なんだかそれがとても嬉しくて」
そう言いながら春歌は首筋の痕にそっと触れた。柔らかく緩んだその表情は、彼女がどう思っているのかを言葉以上に伝えている。思わずセシルが抱きしめようとした瞬間、春歌はセシルの頬から手を滑らせながら言葉を零した。
「わたしもセシルさんに付けたいな……」
「え……?」
「あっ、すみません! 何言ってるんだろ……つい……」
「そんなに慌てないでください。ふふっ、アナタがそう思ってくれるなんて嬉しい」
「ありがとうございます……。だけど……」
セシルから手を離し、春歌は視線を落とした。セシルは春歌に視線を合わせて屈む。
「どうしました? ハルカ」
「いえ、わたしからは絶対に付けられないなって。人に見られたらわたし以上に大変なことになりますよ」
「たしかに……。それはそうかもしれません」
「でしょう」
春歌は少し困ったように笑う。そんな彼女の首筋を見つめながら、セシルは口元に微笑を浮かべた。
「ですが、ワタシはアナタからもっと深い痕を刻まれていますよ」
「えっ……わたし昨日セシルさんに何かしましたか?」
「見せてあげます。来てください」
セシルは春歌の手を優しく引いて洗面所を出た。廊下を歩いた先にあるのは春歌の作業部屋だ。部屋の中心に置かれているピアノにセシルは歩み寄ると、そこにあったものを手に取った。
「ほら、どうぞ」
「これは……」
それは春歌が制作している最中の新曲の楽譜だった。まだ合点がいかないように首を傾げる春歌へ、セシルは譜面を指でなぞりながら言葉を続けた。
「よく見てください。五線譜に書かれた音符の一つ一つ、全てアナタの手でワタシの魂に刻まれているのです。この曲だけではない。これまで作られた何曲もの譜面は、ワタシの心から離れない」
セシルは楽譜を胸に抱えて深く息を吐く。
「そして、この刻まれた痕は永遠に消えることはない。何よりも深い、愛の印です」
夢見るような眼差しが春歌を射貫く。たったそれだけで全身が熱くなった。それと同時に、彼女にとある衝動が芽生えた。春歌は導かれるように、ピアノの前に座る。セシルは一瞬驚いて目を開いたが、すぐに彼女がしたいことに気づいた。
白く細い指が力強くピアノを叩き始める。情熱的な旋律が部屋に溢れていく。それはセシルが手にしている新曲だった。未完成だった部分にも命が吹き込まれるように、新たなメロディが奏でられていく。一心に耳を傾けているセシルに届くよう、春歌は想いを込めて音を響かせた。一瞬の静寂の後、ピアノに併せてセシルの歌声が重なる。まだ歌詞は付いていないのでスキャットだ。だが、彼がどんな想いを込めているのか、春歌はすぐに理解した。互いに導かれるように、二つの音は絡まり、響き合う。永遠にも思える時間が過ぎ、最後の一音が響く。
曲が終わった後も、二人は残響に耳を澄ませていた。
「……終わってしまうのが惜しいくらいでした」
随分経ってから、セシルはようやく口を開いた。春歌も夢見心地のまま頷く。
「ありがとうございます……。とてもいい曲が出来ました。これをベースに調整してからお渡ししますね」
「奇跡のような瞬間に立ち会えて光栄です。この曲に相応しい歌詞を考えるのが楽しみです」
セシルは春歌の手を取り、優しく口付ける。それには音楽に愛された恋人への深い敬意が込められていた。
「わたしも楽しみです。この曲はセシルさんに歌って頂くことで、本当に完成しますから」
「その期待にきっと応えます。いいえ、必ず応える。ワタシの魂は常にアナタの音楽と共にあるのだから」
セシ春アンソロに寄稿したものです。気に入っています。
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