空港へ至る一つの乗継
「自転車……ですか」
「ああ、今の季節なら外での撮影は心地良いものになるだろうな」
セシルの目の前で、真斗は唇を綻ばせた。
数年ぶりになるグループの合同ライブに向けて、七人の仕事は大きく増えていた。演出や振付のアイディア出し、綿密に重ねている練習はもちろん、プロモーションの仕事も多岐に渉っている。バラエティの出演やインタビュー記事の公開、そして今、セシルに告げられた雑誌のビジュアル撮影もその一つだ。
真斗、トキヤ、セシルの三人で組まれたライブ限定ユニットの宣伝として、自転車に乗って談笑している姿を取りたい、という話だった。
別件で楽屋で待機していたセシルとトキヤに、真斗は概要を簡単に説明しながら資料を手渡した。
「なるほど、二週間後の撮影ですか。それなら確かに聖川さんの仰る通り、過ごしやすい時期でしょうね」
トキヤは資料をパラパラと捲りながら、真斗の言葉に頷いた。
「そうだな。長かった冬が終わり、春が巡ってくる」
「雑誌自体は秋に発行です。野外での撮影ですし、表情には爽やかさが求められますね」
「撮影地の公園はかなり広いらしい。一度下見に行き、イメージを掴んでみるのはどうだろうか?」
「ええ、悪くない考えだと思います」
「む。俺達で予定が重なっている日は多い。近日中に向かおう」
「私は構いません。必ず行きましょう」
「ありがとう。愛島はどうだ? ……愛島?」
「愛島さん?」
その時、真斗とトキヤは先程からセシルが無言を貫いていることに気づいた。セシルは眉間に深い皺を寄せたまま資料を眺めている。
「どうした、具合でも悪いのか?」
「……SAMURAIZUMと自転車は全く関係ありません」
重々しい調子で語られたセシルの言葉にトキヤは軽く息を吐いた。
「急にどうしたんですか。バラエティ出演に、今回のような雑誌掲載……プロモーションのタイアップと曲の内容が合致している方が珍しいですよ」
「それは……そうですが……」
「愛島さんが今更そんなことを言い出すのも珍しいですね」
「ああ。何かあるのなら俺達に教えてほしい」
「大したことではないです。いや……少し問題かもしれません……」
セシルの歯切れの悪さに、真斗とトキヤは互いの顔を見合わせる。仲間への心配がその表情にはありありと浮かんでいた。数十秒の沈黙が続いた後、トキヤはおずおずと切り出した。
「あの……まさか愛島さん、自転車に乗れないのですか?」
「なっ⁉そうなのか愛島!」
「…………はい」
おずおずと顔を上げながら、セシルは蚊の鳴くような声で呟いた。
「それなら仕方ないですね。一度事務所に打診してみましょうか」
「そうだな。無理に自転車を使わずとも、談笑している構図は撮れる」
「いえ。撮影までまだ間がありますし、その時までは乗れるようになっておきます」
心配をかけてすみません、と謝るセシルを前にして、真斗とトキヤは顔を見合わせた。
「そう不安そうな顔をするな。自転車はコツさえ掴めば案外簡単に乗れるものだ」
真斗の言葉にトキヤは頷いて続ける。
「ええ。それに写真を撮るだけなら、背後からスタッフに荷台を持って支えてもらうことも出来ます。方法は幾らでもありますよ」
「マサト、トキヤ、ありがとうございます!」
「ああ、応援しているぞ」
「練習をするなら事務所の敷地内にある公園がいいでしょう。自転車も借りることが出来たと思いますよ」
「分かりました! 帰りに行ってみますね」
ちょうどその時、スタッフが呼びに来たので三人はそれぞれ仕事へと戻っていった。
そうしてセシルがその日の仕事を終えて時計を見ると、十五時を少し回っていた。周囲のスタッフに挨拶を済ませてスタジオを出ると、セシルはすぐに事務所へと向かう。トキヤが話していた通り、事務所のスタッフに伝えるとレンタル自転車の鍵を渡された。
「今日は早上がりで助かりました」
駐輪場に停めてあった自転車を押して歩きながら、セシルは深く息を吐いた。真斗の話ではコツさえ掴めばそう難しくもないらしい。案外苦労しなくても済むかもしれない。そんな期待を抱きながら、セシルは公園に辿り着いた。事務所の敷地内なこともあり、周囲に人は殆どいない。練習にはうってつけの環境だった。セシルは自転車へ乗ると、ペダルをゆっくりと踏み込んだ。
「よっ……これは……うまくっ! うわあっ!」
よろよろと進むことは出来たものの、ハンドルがすぐに曲がり、セシルは慌てて足を地面につけた。
「……これは大変かもしれません」
それから数時間、何度も同じことを繰り返したが、結果は同じだった。どうしてもバランスを取ることが出来ずに、自転車はゆらゆらと揺れる。その不安定さにセシルは無意識に身を固くしてしまい、ますますバランスが取りにくくなる。そんな悪循環の中では数メートル進むのが限界だった。
「もういち、どっ!」
怖々とペダルを踏むと、自転車はふらつきながら進んでいく。最初こそまっすぐ進むものの、すぐにバランスが取れなくなってしまう。また同じことの繰り返しになってしまう。焦る気持ちのままセシルが強引にペダルを踏んだ瞬間、ふらつく車輪が落ちていた枯れ枝を巻き込んだ。
「みぎゃっ!」
その勢いで車輪が止まり、セシルは地面に投げ出された。服に付いた土埃を叩きながら、セシルは立ち上がり、深いため息を吐いた。既に日は沈みかけ、辺りは暗くなりつつある。
「今日はここまでですね。一体どうすれば……いっそ魔法を使うのも……」
これほど練習を積み重ねても、セシルには未だに自転車が高い壁のように感じられていた。
「どうされたんですか? セシルさん」
「ハルカ!」
セシルが振り向くと、春歌が手を振りながら歩いてきていた。
「お疲れ様です。ハルカは仕事の帰りですか?」
「はい。事務所で資料を受け取ったら今日は終わりです。セシルさんは……」
その時、春歌は地面に倒れている自転車を見つけた。
「これはセシルさんのですか?」
「いえ。事務所のものを借りています。次の仕事で使うので」
「そうなんですね! 楽しみにしています。あれ? ちょっとすみません」
春歌はセシルの手を握ると、表情を強ばらせる。
「セシルさん、手が擦りむけてます」
「えっ、ああ。気がつきませんでした。大丈夫ですよ」
「でも、水で洗わないと。こっちに水道ありましたよね」
すぐに春歌はセシルの手を引くと、近くの水道に駆け寄って蛇口を捻った。表面の砂を落とすと、春歌は鞄から絆創膏を取り出してセシルに手渡した。
「ありがとうございます」
「いえいえ。セシルさんが練習で怪我をするって珍しいですね。そんなに難しい乗り方なんですか?」
「ああ……いえ、その……」
「セシルさん?」
「実は……」
セシルが練習をしていた経緯を簡単に説明すると、春歌は深く頷いた。
「ああ……自転車って難しいですよね。わたしも乗れるようになるまで本当に大変でしたから、とても分かります」
「ええ。でも、あと少しなんです。もう少し練習すればきっと……」
視線を落としたセシルの顔を、春歌はそっと覗き込む。既に辺りの日はほぼ沈んでいる中で、彼の瞳だけが淡く光っていた。その時、春歌は軽く手を打った。
「セシルさん、明日一緒のオフでしたよね。よければ一緒に練習しませんか?」
「いいのですか? 久しぶりのオフなのに」
「はい。わたしが参加してもお役に立てるかは分からないですけど、一人よりはいいと思うんです」
セシルは目を瞬かせると、微笑む春歌の手を強く握る。
「ありがとうございます。アナタが居てくれればとても心強いです」
「良かったです。そうだ、わたしお弁当作りますね!」
「わぁ! 楽しみが増えました。明日が待ち遠しい」
また同じ公園でと約束をし、二人は自転車を押して事務所へと戻った。事務所から家に帰る間、セシルは手に貼った絆創膏を見つめていた。今後の不安も当然あったが、それ以上に彼の心を占めているのは支えてくれる人への感謝だった。
次の日の朝、セシルはすぐに目覚めて身支度をすると事務所へと向かった。自転車を借りて押しながら公園に向かうと、白い帽子を被って佇む春歌が見えた。
「セシルさん! おはようございます」
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
セシルは頭を下げると、早速自転車に跨がった。
「ハルカはそこで見ていてください。何か気づいたことがあれば教えてくれると嬉しい」
「分かりました!」
春歌が近くのベンチに座って頷いたのを確認すると、セシルはペダルをゆっくりと踏み込んだ。
「おっと……と!」
「うわっ!」
「これなら……うまく……っ!」
「み゛ゃあ!」
それから何度もセシルを乗せた自転車は不安定に揺れながら進んでいった。昨日よりはまっすぐ進むようになったが、数メートルも走るとやはり大きくバランスを崩してしまう。その度にセシルは地面に足をついて、首を捻っていた。
「大丈夫ですか?」
春歌はセシルの側に駆け寄ると、ペットボトルに入った水を差しだした。
「自転車がこんなに難しいものだとは思いませんでした……」
「でも少しずつ上手くなっていますよ。きっともう少しです」
セシルは軽く頭を下げると、水を受け取って一気に飲み干す。日は既に高く昇っていて、セシルの顔には汗が滲んでいた。
「そういえば、ハルカは自転車に乗れますか?」
「はい。あまり上手ではないですけど」
「それでも構いません。ワタシにお手本を見せてもらってもいいですか?」
「わかりました。見ていてくださいね」
春歌は強く頷くと、セシルに代わって自転車に跨がった。その間、セシルは春歌から一切目を離さなかった。強い視線を感じながら春歌は深呼吸をすると、ペダルを強く踏んで走り始める。最初こそフラついたものの、春歌はすぐにスピードを上げて公園を一周するとセシルの元へと戻ってきた。
「久しぶりに乗りました……。あの……参考になりましたか?」
春歌は自転車から降りると、服を軽く叩きながらセシルの元へと歩み寄った。セシルはまだ春歌から目を離していなかった。彼はそのまま春歌の手を強く握ると、ようやく目を細めた。
「はい。とても参考になりました」
見ていてくださいね、と囁くとセシルは再び自転車に跨がった。
「スピードをつけてっ……!」
そう言いながらセシルが力強くペダルを踏みつけると、自転車はそのまま勢いよく走り出した。不安定だった車体はほぼ揺れることなく、そのまま遠くへとセシルを運んでいく。
「やった……!」
春歌は思わず拍手をしながら、走っていくセシルを見つめていた。風を受けてセシルの髪が靡いている。セシルはそのまま春歌の方へハンドルを切った。
「ハルカ! ワタシ出来ました! これでもう……うわぁっ!」
「セシルさん!」
自転車が倒れ、セシルはよろけて地面へ倒れた。春歌が慌てて駆け寄ると、セシルは苦笑いしながら立ち上がった。
「大丈夫ですか⁉」
「少し調子に乗ってしまったようです。大丈夫、転んだのは柔らかい草の上ですから」
「よかった……」
「ハルカのおかげでコツが掴めました。もう少し練習すれば撮影に支障はないと思います」
「セシルさん、とても綺麗に乗れていました。すごいです!」
「ハルカのお手本があったからですよ。おかげでどう体を動かせばいいのか分かりました」
「それがすごいです。わたしが昔練習した時は、乗れるようになるまでとても時間が掛かったんですよ。セシルさんって運動神経がいいんですね」
「アナタはまるで自分のことのように喜んでくれますね」
「はい! セシルさんが嬉しそうで、わたしも嬉しくなっちゃって」
頬を紅潮させながら、春歌はセシルのことを夢中で褒めていた。セシルはそのまま春歌を強く抱き寄せる。
「あ、あのっ、すみません。セシルさん……?」
「ええ。ワタシもとても嬉しい。出来ることが増えたのも嬉しいですし、アナタがそうして喜んでくれるのも、同じように嬉しいのです」
セシルは春歌の肩に左手を乗せ、右手を彼女の頬に当てて自分の方へと向かせた。
「周りには誰もいない。今のうちにワタシにご褒美を頂けませんか? My Princess」
春歌はますます頬を紅潮させると、咄嗟に辺りへ視線を向けた。事務所の僻地なこともあり、確かに周囲には誰もいない。おずおずと春歌は頷き、目を閉じた。
「……ありがとうございます。ハルカ」
そのまま二人の距離が近づき、触れ合おうとしたその瞬間、きゅう、と間の抜けた音が辺りに響いた。
セシルは思わず唸ると、そっと春歌から離れた。何故今、このような、と呟いているセシルに、春歌はそっと切り出した。
「セシルさん。……お腹空いてます?」
「そのようです……」
苦笑いしながらセシルは答えた。昨日見かけた時よりも彼の眉間に深く皺が寄っているのを見て、春歌は思わず笑ってしまった。
「もうお昼ですし、先にお弁当食べましょう。もちろんおにぎりですよ」
春歌がベンチに置いていたバスケットを手に取ると、セシルはすぐに頷いた。
「ありがとうございます。これも楽しみにしていました」
「ね、レジャーシートもありますから。これを敷いて食べましょう」
そう話しながら二人は手を繋ぎ、少し奥にある木陰へと歩き始めた。穏やかな春風が二人の間を軽やかに通り過ぎていく。休日はまだ始まったばかりだった。
PASH!の書き下ろしビジュアルネタです。愛島君が自転車乗ってるのが衝撃的過ぎて……。
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