季節外れのマリン・ナイト
深く息を吐くと、目の前が白く濁った。
身を切りそうな風が吹き付ける中で、わたしは一人で海を眺めている。誰もいない海岸には海の家の跡だけが残されていて、曇り空と水平線が融けるように混じっていた。凍るような潮風も、荒い波も、冬の海は夏のそれとは全く違う顔をしていて、人を寄せ付けない孤高さで彩られている気がする。だからこそ、わたしのような人目を避けたい人間にとって、この場所はかえって都合が良かった。分厚い雲の隙間から沈み始めた太陽が覗いている。暗闇に包まれていく時間は、他の人がみんないなくなって、わたしだけが世界に取り残されたように思わされてしまう。
「風邪を引きますよ」
わたしをそんな空想から引き戻したのは、セシルさんの声だった。建物の中にいても良かったのに、とこぼす彼は少し呆れたように微笑んでいる。わたし達は辺りの薄闇に紛れて、強く手を繋いだ。全てを暴いてしまうライトの下で、こんなことは出来ない。少しの期待を胸に抱いてわたしは砂浜に立ち尽くし、セシルさんはわたしの姿を探す。もう何度も繰り返している待ち合わせだった。ますます冷えていく海辺で、重なる彼の体温だけが強く感じられていた。
「戻りましょう。ここは躰が冷えていけない」
「ええ。帰ったらスープを作ります。良い南瓜が余っている筈ですから」
「それは楽しみ。たまにはポタージュにでもしましょう」
風の音が大きすぎるから耳元で囁き合うように語ることで、わたし達はお互いの熱を分け合った。それでも出来る限り日常に近い話題を選んで、わたし達は現実に戻っていく。周囲を照らす街灯りが増えるだけ、わたし達は手を離して、距離を離して、互いを見ないようにした。
家に戻るまでわたし達の距離が縮まることは無い。セシルさんはわざと反対側の車線からタクシーに乗って、わたしは煌々と光る電車に乗って街を半周ずつ回る。
誰もいない車両からわたしは真っ暗な海とそれを照らすヘッドライトを見えなくなるまで眺めていた。家以外でわたし達が出会える場所、秘密を覆い隠す海が現れる冬をわたしは心の何処かでいつも夢見ている。
春歌ちゃんWebオンリーで公開していた書き下ろし話の一編
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