カーテンコール・スクラップ

醜悪な男の話2

 それからの日々は薔薇色でした。  多忙なセシル君は健気にも僕の呼び出しに出来る限り応え、会うのが難しい時間には代案まで出してくれたのです。仕事帰りにも僕の家まで来てくれるので、僕とセシル君が会わない日は殆どありませんでした。僅かな睡眠時間まで削って奉仕しようとする姿勢に僕は非常に満足していました。  敢えて普段は僕との逢瀬の記憶は忘れさせています。  周囲の人間に気づかれては面倒ですし、何物にも侵されていない姿があればこそ僕との時間がより鮮明になると思うのです。勿論、一言僕が命じればセシル君は再び愛らしい恋人となってくれました。  セシル君が会いに来てくれることを、僕は愛の交流と呼んでいました。僕がセシル君へと手を伸ばす度に、彼へ僕が抱いていた距離感のようなものは次第に縮まっていく、そんな気がするのです。それは高みにいるセシル君を伝って僕が昇っていく行為であり、僕の重みでセシル君が降っていく行為でもありました。  家のインターホンが押されると、僕は返事も聞かずにドアを開きます。  目立たないように身を窶している姿でさえも彼のオーラと秀麗さは隠せていないので、監視カメラをチラリと見ればそれで充分なのでした。 「あの、すみません。ワタシはここに来るつもりはありませんでした。ですが呼び鈴まで押してしまって、どういうことでしょう……」  居心地の悪そうに言うセシル君は、ある程度正気を得ているようでした。足を運んでくれるとはいえ彼の耐性は未だ健在で、日によって愛らしい恋人であったり今日のようにただのセシル君であったりしました。  だから僕は会う度にまずしっかりと教えてあげる必要がありました。彼の頬に手を当てて顔を向けさせると、美しい碧の瞳が僕の姿を写しました。 「いいんだよ」 「はい……?」 「いいよ、そんなの。〝当たり前〟だよ。君は僕に会わなきゃいけないんだ」  そう言い聞かせているとセシル君の瞳は徐々に深い色へと変わっていきました。それに僕が安心しかけた瞬間、彼は急に顔を上げて僕から目を逸らしました。 「……会うことがですか? でもワタシ今日は」 「セシル君は僕に会いたくて来たんだよね? ここに来た理由はそれなんだよ」  少々乱暴に髪を引いて僕の方へ向き直らせると、セシル君へ強く暗示を掛けました。こういうことがあるから決して油断は出来ません。彼の鞄から携帯の画面を盗み見ると何件か連絡が入っているのが見えました。仕事の用事は全て報告させていましたから、恐らくプライベートの用事でしょう。今日はともかく、まだあまり怪しまれてもいけないので、次は諦めなければならないことを僕は残念に思いました。その分今を楽しまなければなりません。セシル君は明日も早くから予定が詰まっているのでした。  もうすっかり僕の恋人へと成り果てたセシル君は、待ちきれないように僕を抱き締めてキスをしてくれました。  舌を絡め合いながら手を繫いで寝室に向かうひとときは至福と言えるでしょう。僕の家は決して広い方ではありませんでしたが、セシル君が存在している間は夢の城となるのです。衣服の上からでも互いの熱を感じ合うと如何に興奮しているのかが分かります。  上着を脱がせてシャツを僕が必死に捲り上げている間、セシル君は頭を優しく撫でてくれていました。その余裕を少し引き剥がしたくて何気なく胸元を揉んでみましたが、くすぐったいと笑われるばかりでした。  その間もセシル君の腕は巧みに動いて僕のスラックスを降ろしていきます。セシル君の均整のとれた首筋に吸い付くと、彼は僕の脂汗に塗れた頭皮の臭いを肺一杯に吸い込んでくれていました。  このようにまだ本格的な行為に入る前ですが、その段階でさえ完全に主導権を握ることが出来ていないのを僕はいつも歯がゆく思っていました。  そうして一枚一枚服を脱がせ合って、僕達は下着だけの姿になりました。セシル君がその最後の一枚に手を掛けた時、僕は良いことを思いつきました。 「待って」 「何ですか……?」  セシル君はもう待ちきれない様子で、半ば融けたような瞳を僕に向けました。僕はそのまま抱き締めたい思いをグッと堪えると口を開きました。 「セシル君、その格好で自慰を見せてくれないかな?」 「はい?」  やはり僕の要求は多少変態的だったのか、セシル君は正気に返りかけていたので、より強く念じなければなりませんでした。 「見せてくれるよね。僕の〝恋人〟が普段どんな自慰をしているのか知りたいんだ」 「少し恥ずかしいですが……分かりました」  確かセシル君のいた国では膚は濫りに人前で晒すものではないそうです。そんなお堅い国にいた彼ですから、自慰を公開するなんて真似には抵抗があるでしょうに(僕の力も多少あったとはいえ)快諾してくれるなんて相応の勇気を振り絞ってくれたのだと感謝の思いで一杯になりました。  セシル君はゆっくりと両手を下着の中に滑り込ませると、そのまま手を動かし始めました。なるほど、やはり最低限の羞恥は拭えなかったようです。  ふざけているのかと怒りたい気持ちも当然あったのですが、それ以上に僕は目の前の光景に夢中になりました。セシル君は目を閉じて頬を上気させながら快楽を追い求めていました。  それは普段の彼とは違い、余裕など無い人として最も私的な部分を晒しているのです。小さく洩れる声に、少しずつ形を露わにしていく布の変化に、僕は釘付けになりました。セシル君は両手で男としての本能を処理しているのだと思うと中々に味わい深いものでしたし、何より手の動きが大胆になる度に下着に色濃く染みが付着していくのはとても愉快でした。セシル君のような人間でも生理反応があるのだという事実を暴くことは、彼を世俗的な存在に貶めたかのようで僕は非常に情欲を誘われました。柔らかな唇が小さく噛み締められた瞬間、僕はセシル君の右手を押さえ込みました。 「はっ、あ……! 何を……」  まさに絶頂に登り詰めようとしていた瞬間にそんなことをされて、セシル君はもどかしげに僕を見上げました。  濁った瞳には僕だけが映っています。瞼に軽く口付けをしながら、僕はセシル君の下着に手をかけました。  それは先走りですっかり変色してしまっていて、現れた陰茎との間にべったりとまとわりついていました。  下着を床に落とすと、セシル君は本当に身一つになって僕の前に存在していました。  何度見ても神々しさすら感じる美しい肉体は僕を惹き付けて離しません。それと同時に、同じ男としての敗北感がいつも僕の胸を過るのでした。ですが、本能的な情欲に満たされているその躰は、僕の命令に従うことでしか欲望を解消出来ないのです。彼の唇の端からは唾液が一筋垂れて、胸、腹と伝って先走りと混じり合いました。 「やっぱり君はとても素晴らしいね……愛し、愛される為の躰だ……」  僕が息が掛かりそうなほどに側に寄ると、健気な彼は自身を差し置いて僕の躰に手を伸ばしてきました。それは予想の範疇でしたので、震えている手を易々と掴むことが出来ました。そうして手を繫いだまま僕はセシル君をベッドに押し倒しました。 「ねぇセシル君」  鼻歌でも歌いたいような気持ちで呼び掛けると、セシル君は荒く呼吸を繰り返しながら僕を見上げました。  その瞳に映る情欲がますます色濃くなっていることに、僕は気を良くしました。 「もう限界かい?」 「はい……焦らされるのは、あまり………」 「好きじゃないんだね。素直で良い子だ。一つだけお願いを聞いてくれたら解放してあげるよ」 「お願い?」  僕はそうだと頷くと、彼の反応一つも見逃さないように目を見開きました。 「イキたいなら僕に服従を誓って欲しいんだ。起き上がって、僕の足に奉仕してくれたら最後までしていいよ」  その時、セシル君の表情は僅かに強ばりました。僕から目を逸らして、呼吸を整えようとしているようです。  正気が出てきたのだとすぐに分かりました。まだ完全に解けてはいないようですが、僕に従わされることにセシル君の積み重ねてきたものが反抗しているのです。 「どうしたんだい? もう辛くて仕方ないだろう。一回従うだけで良いんだよ」 「ごめんなさい。無理です」  僕が優しく呼び掛けても、セシル君は小さく首を振るばかりでした。それは僕が暗示を強めて何度言い聞かせても同じことでした。  それだけセシル君の意志は強かったのです。彼の陰茎に手を這わせて、何度焦らしても無駄でした。  もう耐えられないと訴えるような痛苦に満ちた悲鳴で喉を枯らせても、セシル君は決して折れませんでした。寧ろ追い詰められるほど、彼の瞳は澄み、正気への道を歩んでいくように思われました。  数時間後、疲れ果てた僕はセシル君との我慢比べに負けました。まだ彼を僕の手中へ完全に収めるのは無理だと判断したのです。その頃にはセシル君も首を振ることさえ出来ず、胸を大きく上下させながら、荒い呼吸を繰り返すばかりでした。 「セシル君、僕の負けだよ」 「まけ……」  機械的に僕の言葉を反芻したその声は酷く掠れた小さなものでした。もう僕も彼も限界なのです。僕は最後の力を振り絞って、セシル君に暗示を掛けました。 「……セシル君は僕のことを愛しているよね?」 「はい……」 「僕はセシル君の愛する人だ。そうだね?」 「はい……」 「僕のことを本当に愛しているなら、僕の足に奉仕して欲しいんだ」 「………………はい」  疲れ果て、暗示で判断力が更に落ちている中で、抵抗を続けることは不可能でした。その時、僕が浮かべたのは会心の笑みだったのでしょう。確かに、これからセシル君が誓うのは服従ではありません。恋人への愛です。  ですが結果は同じでした。セシル君は僕の命令に従ったのです。こうして少しずつ忌避感を無くしていけば、今は無理だとしても、いずれ必ずセシル君は僕の元へと堕ちていくのでした。 「じゃあよろしくね」  そうして僕が足を差し出すと、セシル君は口を開けて僕の指先へと口付けました。それは普遍的な〝服従〟を誓うジェスチャーでしたが、そう認識する力はもうセシル君には残っていないのでした。  限界だったのでしょう。下着に動きが遮られることもなく、彼は長い指を大胆に動かして必死に快楽を追っていました。それでも僕の指に歯を立てないようにする健気さに涙が出そうでした。ロクに洗っていない僕の足先に奉仕しながら、快楽を追い求めているその姿は非常に堕落的で、それを仕込んだのは僕なのだと思うと興奮と優越感に気が狂いそうでした。 「ふっ、ぐ、あ……はっあ゙…………!」  僕の中指を口に含んだまま、セシル君は漸く絶頂に至りました。数時間焦らされた上で漸く得られた快感がどれほど凄まじいものなのか、僕には想像も出来ません。  一つ言えるのは、この快楽が僕への奉仕の結果であるとセシル君に深く刻み込まれたということです。これを続けていけば、僕への奉仕はより積極性を帯び、受け入れてくれる行為も増えることでしょう。  セシル君は深く息を吐くと、そのまま床に倒れ伏しました。飛び散った精液を拭うことも出来ずに、あどけない表情にはべったりと情欲の痕がこびりついています。  僕はその光景を写真に収め、目覚めるまで側についていてあげました。意識を取り戻したセシル君は、僕が楽しめなかったのではないかと酷く心配していましたが、そんな心配は無用であることを伝えると、照れたような笑みを見せてくれました。  遅くなりましたし、今日はそのまま服を身に着けて解散となるのですが、帰ろうとするセシル君の後ろ姿に僕は一つ賭けをしたくなりました。 「セシル君、待ってくれないか」 「なんですか?」  振り返った彼の右手に僕はある物を滑り込ませました。 「これをあげるよ。プレゼントだ」 「プレゼント……?」 「僕がもっと君を愛せるようにね。暫くはそれで練習だよ」  僕が手渡したのは小ぶりのバイブでした。本当は次に会うときに無理に挿れても良かったのですが、無理矢理に事に及ぶのは僕の趣味ではありませんでしたし、そこに至るまでの手間は少ない方がいいと思ったのです。  それにセシル君自身が僕と繋がる行為に手を出すというのはとても背徳的だと感じられました。  ですがそれを渡したのは一種の賭けでした。何をされるのか理解したセシル君が一気に正気に戻らないとも限りませんでしたから。ですがここまで追い込んだ今だからこそ、お願いできることなのかもしれないのです。  早い話が、僕は少しでも早くセシル君の全てを手に入れたいと願わずにはいられなくなっていたのでした。  結果的に、僕は賭けに勝ちました。  セシル君は何を求められているのかすぐに理解して、僕に抱きつくことで返答をしてくれたのです。僕から本格的に愛を受けられることへの喜びがそこにはあったかのように思います。僕はセシル君から本当に愛されているのでした。  僕はそうずっと思い込めればいいと願っていましたが、現実は甘くありませんでした。セシル君との逢瀬を幾度となく重ねていくうちに、僕は一つの事実を察しなければなりませんでした。  僕に支配されていない、セシル君の本当の心には、とても大切な人が居座っているということです。  例えば彼の心を占めるものが国だとか、ファンだとか、あるいは仲間達との友情だとか、そんなものだったら良かったのです。  ですが、僕達が重ねていた行為の最中でセシル君から垣間見えていた経験は元々この唯一人の為に磨かれたものでした。結局、僕は他人に向けられる筈だった愛情を横取りして貪っている部外者に過ぎません。  僕はその事実を自覚する度に吐き気のするような具合の悪さを覚えました。  僕に向けられる微笑み、愛おしげな所作、恋の囁き、それらが全て誰の物だったのか考えるだけで羨望に狂いそうでした。ある時、どうしても耐えられなくなりセシル君にその人が誰なのか聞いてしまったのです。僕が恋人であるという暗示からは相反する質問だった為、意志の固いセシル君からそれを聞き出すのは一苦労でした。  ギリギリまで正気に戻して、快感を伴う責めも、痛苦を伴う尋問も駆使して、何時間も泣き叫ばせて。それでもセシル君は決して口を割ろうとしませんでした。僕が彼の携帯を見れば良いのだと気づくまでそれは続きました。何度めのことか忘れましたが、セシル君が意識を失った時を見計らって指紋認証で携帯を開きますと、僕は探し求めていた答えを見つけることが出来ました。  セシル君の大事な人はたった一人のちっぽけな女の子でした。彼女は素晴らしい作曲家で、セシル君を一番輝かせる曲を書くと業界内ではちょっとした評判でした。 僕とは正反対の小さくて細くて可愛らしくて、何より夢を実現させる力を持った女の子は、セシル君の唯一人になるには相応しいのかもしれません。先ほどちっぽけな、と評したのも僕の醜い嫉妬以外の何物でもないでしょう。  ですがやはり、セシル君が生涯を賭して愛するには値しないと僕は思いたかったのです。セシル君に選ばれた人間がいるということを認めたくなかったのかもしれません。僕に向けられた嘗ての優しさは通り一遍の物に過ぎず、なのに僕はそんなものにいつまでも縋り付いているのでした。  しかしそのような要素がセシル君に付随していることは僕にとって都合が良いとも言えました。事を荒立てるセンセーショナルなネタの一つとしても使えますし、何より、セシル君の明確な弱点を握ることが出来たということなのですから。
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