Beautiful Dreamer
一点の曇りもない真っ白な薔薇が辺り一面に咲き誇っている。春歌は白薔薇に囲まれた庭園をまっすぐに歩いていた。辺りには誰一人いない。時折、蝶が飛ぶのを見る他は生き物の気配すらなかった。
もちろん彼女はこの場所を知らない。それでも、進む道を迷うことはなかった。まるで何かに導かれるように、春歌は進み続けていた。
庭園の最奥には石膏で作られた門があり、白薔薇のつるが絡みついている。その門を前にして、春歌は漸く足を止めた。これ以上進む必要はないと、その時の彼女は感覚的に理解していた。
「綺麗……」
周囲は静まりかえり、鳥の声すらない。辺りを囲む薔薇の木を穏やかな日差しだけが照らしていた。
この美しく満ち足りた空間の中でも、何かが欠けているような気がしてならなかった。此処で誰かが自分を待っているような、そんな衝動に駆られて春歌が目を凝らした瞬間、門の先に誰かの後ろ姿が見えた。この人だ、とその場で理解した。
「あの……、あなたがわたしを呼んでいるんですか?」
春歌がその影へと走り出そうとした瞬間――アラーム音が響き渡った。
「きゃあ!」
慌てて春歌が起き上がると、そこは見慣れた寝室だった。鳴り続けているアラームを止めると辺りには静寂が戻る。
「夢……だったんだ」
何かとても美しい夢を見ていた気がしたが、既に記憶は曖昧になりつつあった。誰かが自分を呼んでいるという自覚だけが彼女の心に朧気に残っている。暖かな春の空気が夢の余韻のように辺りを包んでいた。ベッドから抜け出しながら春歌は大きく息を吸い込んだ。
「……よし!」
何度か頬を両手で叩くと、春歌は手帳を開いた。今日行われる会議の日付と時間を確認した後、手帳を置いて浴室へと向かう。
今日、春歌が参加する会議は新作映画に使われる音楽に関するものだ。監督やプロデューサーも参加し、今後の制作にも関わる重要な会議だった。会議で使用する為の曲のサンプルは既に出来上がっている。それでもやはり春歌は緊張で体が強ばるのを抑えられなかった。
シャワーを浴びた後にキッチンで簡単な朝食を取ると、春歌はクローゼットの前で服を選び始めた。若草色のタイトスカート、桜色のシャツ、案外袖を通すことは少ない黒のスーツ、それらを軽く眺めて春歌は首を振った。
「スーツ、かなぁ……」
会議に参加する関係者達は殆ど全員私服のはずだった。スーツで参加しても浮くことはない筈だ。だが、なんとなくすぐに袖を通す気になれず、春歌はクローゼットの中をもう少し探った。
その時、彼女の手に触れたのは春用の白いワンピースだった。春歌は考えるより先に、そのワンピースに袖を通した。鏡に全身を映し、春歌は納得したように頷く。丸襟の上品なデザインは、会議で着ても特に問題は無いはずだ。残りの身支度を整えると、春歌は楽曲の最終確認をして家を出た。
電車を乗り継ぎ、少し迷いながら郊外の事務所まで辿り着く。会議が始まるまでの間も、春歌は想定される質疑応答のシミュレーションを繰り返していた。
そうして始まった会議は数時間に渡った。業界で行われる話し合いには慣れてきたものの、それでもやはり体力を削られる。特にこの映画の関係者は音楽にこだわりが強い相手だっただけに、尚更だった。会議全体の張り詰めた空気に気圧されないようにするだけで精一杯だ。
作り上げたサンプル曲を春歌が再生した瞬間、何人かは顔を輝かせ、数人が首を振り、残りは何の反応も返さなかった。そしてサンプルを採用するか、このまま使うのか、何かアレンジをするか、全てを一つずつ決定していく。幸い春歌の曲を気に入ってくれている者が大多数だったが、やや鋭い言葉で批判をする者もいた。気に入ってくれた者からも、アレンジの指示こそ出ても方向性が曖昧だったり、抽象的過ぎたりもする。批判や賞賛、意見、それら全てに答えるだけでも一苦労だった。そして挙げられた内容を取捨選択し、今後の作曲で本当に必要なものだけを記録していく。
最終的に、作ったサンプルの半数ほどは採用されて調整をしていくことになり、その場は解散になった。
先に現場を出る監督や先輩の音楽プロデューサー達に道を譲り、春歌が会議室を出た時には既に昼を回っていた。事務所の誰もいない来客ロビーで、彼女は手近なソファに沈み込むように腰掛ける。思わず深いため息が溢れた。
「良かった……。だけど……」
春歌はソファに体を埋めるように座ったまま天井の照明を見つめた。
仕事の山を越え、一定の評価を得られたことに対する安堵と充実感は確かにある。だが、それと同じくらいの悔しさが胸の底に滲んだ。上手く意図が伝えられなかった箇所があった、会議という場で気圧されてしまった部分があった。そんな小さなミスばかり思い浮かぶ。
提出したサンプルも全てが採用されることはなかった。あの場にいた全員の心を動かすことも出来なかったのだ。それは一流の作家でもよくあることだ。ありふれた事象に過ぎない。
「はぁ……。あ、またため息を……」
それを理解していても、彼女の心が完全に晴れることはなかった。疲労もあって必要以上に落ち込んでしまっている。こんなことをしている暇はない。会議の結果を踏まえて、早く曲の修正を始めなくてはいけない。昼食もまだ取れていない。やるべきことは山積みだ。それなのに春歌はすぐに動けずにいた。
ひとまず立ち上がろうと彼女が力を入れた瞬間、携帯に通知が入った。画面にはパートナー兼恋人であるセシルの名前が表示されている。反射的にメッセージを開くと、『近くの庭園で撮影をしています。時間が許せば、会いたいです』と書かれていた。
メッセージに記載されている庭園を調べると、春歌がいる事務所からは徒歩五分もかからない距離にあるらしい。
『すぐに行きます。待っていてください』
それだけ送ると春歌は立ち上がり、庭園へと向かった。平日の郊外に人気は無く、庭園までの道で誰にも会うことはなかった。穏やかな午後の日差しが辺りを照らし、鳥の声だけが響いている。庭園の入り口はすぐに分かった。春を迎えたばかりの庭園からは、甘い花の香りが漂っている。
入場口の近くで改めてセシルへ連絡を取ろうと春歌が携帯を取り出した。
「あれ、七海じゃん。どうしたの?」
「一十木君!」
春歌が振り返った時、そこにいたのは音也だった。
「一十木君も撮影に参加されてたんですね」
「そうそう! 俺はさっき終わったところ。あ~七海が来るならもう少し衣装着てれば良かったな」
音也は既に私服姿だった。チェックも終わり帰ろうとしていた矢先に春歌と鉢合わせしたらしい。
「ふふっ、完成した写真を見る楽しみが出来ました。わたしは近くで会議があって来ていたんです」
「分かった! セシルが呼んだんでしょ」
「はい。セシルさんの撮影が終わるまで近くのカフェで待つつもりです」
「え~勿体ないよ! もうすぐセシルが撮影するし、良かったら少し見ていったら?」
「いいんですか?」
「大丈夫! 待ってて!」
庭園の中に駆けていった音也は数分もしないうちに戻ってきた。その手には関係者証が握られていた。
「スタッフの人に七海のこと知ってる人結構いたみたい。これすぐ貰えちゃったよ、はい」
「ありがとうございます! 嬉しい……」
「どういたしまして。じゃあ、俺、次の仕事あるんだ。また今度みんなで遊ぼうね」
「はい。是非」
春歌の返答を聞いた音也は笑顔で頷くと、手を振って去って行った。春歌も手を振りかえした後、庭園の中へと入った。
待機していたスタッフに関係者証を見せるとすぐに奥まで通してもらえた。庭園はちょうど白薔薇の盛りで、どこを向いてもその美しい姿を誇示していた。そんな白薔薇の木々に囲まれた空間の中心で、ちょうど撮影していたのはセシルだった。
一点の曇りもない白いタキシードに身を包んだ彼は、薔薇の隣で優しく微笑んでいる。カメラの向こうにいる無数のファンへ共に歩んでいくことを誓い、手を差し伸べた。その瞬間、誰もがセシルの姿に釘付けになる。華やかな空間の中でも、セシルの存在感が押し負けることは一切なかった。
撮影の邪魔をしないように、隅の方で様子を見ていた春歌も、その光景に魅了された一人だった。カメラを向けられて少し顔つきが変わる瞬間、何日も考え抜いた愛の囁き、圧倒的な気品と存在感、一つ一つが心を掴んで離さない。深く息を吐きながら、春歌はじっとセシルを見つめ続けていた。
セシルは春歌の姿に気づいていたのか、チェック待ちの小休憩に入るとすぐに彼女の元へ駆け寄ってきた。
「ここまで来てくれたんですね! ありがとうございます。驚きました」
「近くのカフェで待つつもりだったんですけど、一十木君が声をかけてくれて」
「なるほど。オトヤには後でお礼を言わなくてはいけませんね」
セシルは頷くと、嬉しそうな笑顔を見せた。彼はそのまま春歌を連れて庭園の奥へと歩き出した。
「時間は大丈夫ですか?」
「数分程度なら問題ないそうです。それより、アナタと二人きりで話がしたい」
撮影のざわめきが微かに聞こえる他は、辺りは人気も無く静まりかえっている。木々に囲まれた平地へ出ると、セシルは足を止めて春歌に向き直った。
「少し浮かれているのかもしれませんね。異国の装いではありますが、この姿を早くアナタに見せたかった」
「はい! わたしも見れて嬉しいです。撮影中のセシルさんもとても格好良くて、素敵で、まるで……」
春歌はそれ以上言葉が続けられなかった。頬を赤らめたまま彼女は目線を下へと向ける。視界には彼女のワンピースの裾と、セシルの磨き上げられたエナメル靴が映った。撮影中のセシルの堂々とした振る舞いが蘇る。彼は花婿として間違いなくその場にいた全員を魅了していた。
「これは花婿を意識した衣装だそうです。ホワイトデー記念の撮影にぴったりでした」
セシルの弾んだ声が辺りに響く。ますます春歌は顔が上げづらくなった。良くないと分かっていても、セシルと自分と対比してしまう。
「……なんだか気後れしちゃいます」
春歌は項垂れたままそう呟いた。会議が終わった後に薄らと抱いた感情と、今の彼女の心に巣くっている感情は非常によく似ていた。セシルが自分を選んでいるという事実まで、今の春歌には不相応に思えてしまう。視界が淡く滲んだ。白いつま先がこちらに歩いてくるのが見える。セシルも春歌の様子がおかしいことに気づいたのだろう。
春歌はやや強引に笑顔を作ると顔を上げた。やはり不安そうな顔をしたセシルの姿が目の前にある。セシルは春歌の頬にそっと手を添えた。
「セシルさん、あの」
「大丈夫。薔薇の木々がワタシ達を隠してくれている。それより、その顔をよく見せて」
セシルの瞳に見つめられて、春歌は動けなかった。明るい日の光に照らされて、若草色の瞳は普段以上に澄んでいる。セシルは暫く春歌を見つめると、僅かに眉を寄せた。
「やはり少し疲れているようですね。今日の仕事は大変だったのですか?」
「ごめんなさい。心配を掛けてしまって……」
春歌は苦笑しながら小さく首を振る。なんでもないと伝えるような仕草は、このまま際限なくセシルに甘えまいとする彼女の自戒でもあった。
「My Princess――アナタはとても美しく、気高い人。だからこそ、そんなに自分を責めないでください」
「……わたしは、そんな立派な人じゃないんです」
「さっきもアナタはワタシに微笑みかけてくれました。辛い時に笑顔を見せることがどれほど大変なのか、理解はしているつもりです」
セシルは春歌の両手を握ると、静かに言葉を続けた。
「今目の前にある問題を全て解決するには、力が及ばないこともあるでしょう。ですがアナタの道はまだ途上、そして先に進もうとする強さをアナタは間違いなく持っています」
彼の言葉を聞いた春歌は深く息を吐くと、セシルの手をそっと握り返した。肩の力が抜けて随分と楽になった気がした。
「セシルさん、ありがとうございます。……結局セシルさんに甘えてしまいました」
「ずっと今日は気持ちが張り詰めていたのでしょう? ワタシにはたくさん甘えてください。支え合う為にワタシ達はいるのです」
「はい。おかげで少し元気が出てきました」
「顔色が明るくなりましたね。その調子です、ワタシも負けていられませんね」
「ふふっ、そんなことないですよ。セシルさんは一人で撮影をやり遂げていますし、まずはわたしが追いつく番です」
春歌の言葉に今度はセシルが苦笑しながら首を振った。
「……実はハルカが来る直前まで、ワタシは散々カミュに怒られていたのです」
「まぁ。そうなんですね」
「撮影を見たアナタの心をあれだけ動かせたのですから、一応的確なアドバイスだったのでしょうね。それでもあの横暴な言い方はどうかと思いますが……」
言葉を続けるセシルの不服そうな顔を見て、春歌は思わず笑ってしまった。
「そういえば、今日着ているワンピースは見たことがないです。素敵ですね」
「ありがとうございます。先月に買ったんですけど、今日までなかなか着る機会が無くて」
春歌はスカートの裾を指先で摘まみながらはにかんだ。
「身につけた日が今日で良かった。生地の色が白薔薇の木々と引き立てあうようで、とても美しいです」
「それにこの生地はセシルさんの衣装ともおそろいですね」
「ええ、とても嬉しい。きっと運命がワタシ達を導いてくれたのでしょう」
セシルの白いタキシードを見つめながら、春歌は声を弾ませていた。その様子を見たセシルは微笑むと、春歌の手を取り庭園の更に奥へと進んでいく。
揃いの色を身につけた二人が進む先には、薔薇のつるが絡みついた白い門があった。その門とセシルの後ろ姿を見た瞬間、春歌は思わず足を止めた。
「……ハルカ」
「この風景をどこかで見たような気がして」
春歌はセシルの手を引いたまま、薔薇の門をくぐり抜ける。そこはちょうど庭園の端らしく、
「わたし、夢を見たんです。薔薇に囲まれた庭園の中で、誰かに呼ばれている。そんな夢を」
「夢は願いの表れとも言います」
「願い、ですか?」
「はい。誰かに必要とされたいという想いが強い日だったのではないでしょうか」
「……たしかに、そうかもしれません」
今日の会議の結果を思い返しながら、春歌は少し俯いた。
「大丈夫。今それに気づけたのなら、次はもっと上手くいきますよ」
セシルは春歌の手を握ったまま、その手に優しく口づけた。強く張り詰めていた気持ちが穏やかに解けていくような気がした。
「夢の中でわたしを呼んでくれていたのは、セシルさんのような気がします。ごめんなさい。変なこと言って」
「そうかもしれませんよ。ここに似た場所に夢でアナタが来ていたのも、ワタシの願いがアナタの夢に混じったからかもしれません」
「そんなこともあるんですか?」
「それが夢の面白いところです」
静かな庭園の中で、二人は小さく笑い合った。まるで夢の続きのような、そんな穏やかさが辺りを包んでいた。
その時、スタッフがセシルを呼ぶ声が響いた。
「チェックが終わったようですね。戻らなくては」
「はい。頑張ってくださいね」
二人はすぐに手を離したが、視線は強く絡ませたままだった。この瞬間が現実である照明のようで、別れの時間すら愛おしかった。
「もう少しで撮影も終わります。良かったら一緒に昼食を」
「喜んで! 待っていますね」
薔薇の門を二人は揃ってくぐると、セシルは撮影場所へと走っていった。
春歌は近くに置かれていた椅子に座ると、ノートを開いた。修正案や新たな構想が次々に浮かび始めている。それを書きとめる春歌のペンは、セシルが戻るまで止まることはなかった。
シャニライホワイトデーURの白タキからイメージした話。ホワイトデーほぼ関係なくなっちゃった。
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