貴方だから

 ガタリ、と音がしてわたしはふと楽譜から顔を上げた。壁掛け時計の針はもう頂点を通り過ぎている。机に座った時はまだ夕方だったと思うのだけれど、集中しすぎる悪い癖が出ていたようだった。またセシルさんに心配をかけてしまう。  その時わたしは、セシルさんから一度も声を掛けられていないのだと気付いた。いつもなら休憩に誘いに来てくれるのだけれど、今日のセシルさんはドラマの撮影と打ち上げの筈――。そしてわたしはある可能性に思い当たって、弾かれたように立ち上がった。  ビニール袋と冷蔵庫にあったミネラルウォーターを掴んで、慌てて向かった玄関には思った通りの光景があった。 「セシルさん、おかえりなさい。大丈夫ですか?」  出来る限り響かないように囁くようにして声を掛けると、玄関先で蹲っていた彼はゆるゆると顔を上げた。 「ああハルカ……起こしてしまいましたね…………すみません……」  そう言うセシルさんの顔はかなり赤い。かなりふらつきながら靴を脱いでいたけど、それを揃える余裕もないみたいで、壁に寄りかかるようにしてその場に座り込んでしまった。 「気になさらないでください。お水飲みます?」 「……いただきます」  ボトルの蓋を開けてミネラルウォーターを渡すと、セシルさんは少しずつ舐めるようにして飲んでいた。時間をかけて半分くらい飲むと少し落ち着いたみたいで、その場で深い溜息を吐いた。落ち着いたのを見計らって、わたしがセシルさんのコートの袖を引くと、彼は素直に脱いでくれた。そうするともっと楽になったみたいで、セシルさんはゆっくりと話し始めた。 「酒の席は大事だと聞いてはいましたが、今回は少しひどいです」 「沢山飲まされたんですね」 「ええ。ワタシが明日オフと知った途端に、コミュニケーションの為と」  そう言うとセシルさんは深く眉間に皺をよせていた。今日の打ち上げはとても偉い方々、言うなれば年配の方が多めだったはず。そんな相手にお酒を勧められれば少し、断りづらかったのかもしれない。セシルさんはお酒に弱い方ではなかったけれど、そういうところも気に入られてしまったのでしょうか。 「ミステリアスだとか何を考えているのか知りたいだとか、それはワタシと彼等が殆ど初対面だからです。そもそもワタシはいつも正直者。素直になるのに酒の力なんて必要ないのに……」  セシルさんが怒っている理由はもっともだし、今の時代にまだそんな会があるなんて呆れてしまう。ただ、セシルさんには悪いけれどあと半分くらいの気持ちはボトルを握り締めたままブツブツと呟いている彼の姿への珍しさで占められていた。あまりセシルさんは愚痴を話すにしても短く切り上げるので、なんだかとても新鮮だった。 「大変でしたね。わたしからもそれとなく事務所に報告してみます」 「ありがとうございます。本当にあの場にいたのがアナタでなくて良かった」 「それと、セシルさん。今日はもう休みませんか?」 「その方が良いと思います」  わたしは片腕にコートを抱えると、セシルさんに手を差し伸べた。立てますか、と聞いた時セシルさんは小さく頷いていたけど、わたしの手を掴んだ体温はとても熱かった。立ち上がったらやはりふらつくみたいで、セシルさんはまた少しよろけている。 「わたしの肩に掴まっていいですから。ベッドまであと少しだけ頑張ってください」 「ごめんなさい。立つとダメみたいです……」 「すみません。失礼しますね」  セシルさんはわたしに体重をかけないようにしようとしていたから、手を少しだけ強く握って無理に肩へと導いた。自分でも強引だと思うけれど、このまま玄関で寝てしまったら風邪をひいてしまう。 「ビニール袋ありますから、もしもの時は使ってくださいね。ちょっとずつ歩きましょう」 「………………はい」  わたし達は二人で支え合って、ペンギンみたいによたよた歩きながら、なんとか寝室まで向かった。あまり病気をする人ではないから、セシルさんがこんなに弱っているのなんて初めてのようなものだったし、そんな状態の彼だからこそ冬の玄関先なんて場所で過ごさせたくなかった。  辿り着いたベッドに横になったセシルさんにもう少し水を飲ませて、コートをハンガーに掛けて、玄関に置いたままの鞄を取って、ついでに戸締まりを確認する。冷蔵庫にはたしかシジミがあった筈だから、明日お味噌汁にしよう。少ない知識で慌ただしく動いていたわたしを、小さな声が確かに呼んだ。 「セシルさん?」 「ハルカ……」  わたしがそっと覗き込むと、さっきまで赤くなっていたセシルさんの顔色は元に戻り始めているみたいだった。 「ありがとうございます。かなり楽になりました」 「それは良かったです……!」 「迷惑をかけてしまってすみません。情けないです」 「そんなこと気にしないでください。明日はゆっくり休んでくださいね」  わたしが返事をしているうちに、セシルさんの目蓋は下がっていった。掛け布団を肩まで引き上げてあげると、彼は静かに息を吐いた。 「本当にアナタは優しい……何も苦にして、いないのです……ね」  セシルさんはそっとわたしの手を握ると、頬を擦り寄せて穏やかな寝息を立て始めた。わたしは彼からこんな風に甘えられる時間が好きだった。もちろん、いつもわたしを導いてくれる頼もしいセシルさんも大好き。でも、甘えたり頼ってくれる時少しだけ幼く見えるセシルさんの姿もとても好きだったし、そんな彼に頼られる自分がちょっと誇らしく思えたりする。 「セシルさんだからですよ。おやすみなさい」  こっそりと囁くと、眠るセシルさんの口元が僅かに緩んだ気がした。
春歌ちゃんWebオンリーで公開していた書き下ろし話の一編。

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