たくさん愛してください

ワタシと誰か

「セシル君……。漸く会えたね」 「アナタは一体誰です? ここは男性寮ですよ。事務所なら別の建物です」  それは季節が春へと移り変わろうとしている時だった。仕事を終え、寮に戻ったセシルは建物の前で見知らぬ男に声を掛けられた。それなりに長身のセシルがやや目線を上げなければならないほどの巨体の男は、でっぷりと脂肪を蓄え、不規則な呼吸音を放っている。  表面に薄らと脂の浮く不潔な顔を眺めながら、セシルは寮の関係者の顔を次々と思い出していた。本来であればシャイニング事務所は関係者しか入れない厳重なセキュリティで守られている筈だが、この話しかけてくる男の顔をセシルは見たことがなかった。敷地も広いこの事務所だ。道に迷った新入社員とも考えられるが、男の態度は異様に馴れ馴れしく、セシルは眉間に僅かに皺を寄せた。 「やっぱり僕のこと覚えてないんだね。悲しいなぁ。僕は本当に、ずっと、君だけのことを考えて今迄生きてきたのにさぁ。君と来たらこの対応だもん。本当に悪い子だね」 「何の話をしているのですか……?」  ぶつぶつと捲し立てる男は明らかに異様だ。少しずつ後ずさりをして距離を取ろうとしたその瞬間、男はセシルの右腕を強く掴んだ。 「痛い! 何ですか、離して!」 『動くな』  仮に、セシルが男の力の存在を最初から認識出来ていれば、今後の事態は避けられただろう。所詮一昼夜鍛えただけの男とセシルの間にはそれほどの差は当然存在した。  だが眼前の男がそんな異常性を持つなど、セシルが予想出来る筈もない。男の声を聴いた瞬間、総毛立つような不快感と共にセシルの全身が鉛のように重くなる。咄嗟に背後へと体重を寄せてセシルは男の腕を振り払った。 「アナタは今……何を……」 「あれ? 効きが悪いね。普通は時間が止まったみたいにじっとしてくれるんだけど」  だが気づいた時には全てが遅かった。セシルは無防備に、男の力を正面から受け止めてしまっていた。全身がますます重くなっていく。出来れば魔法は使いたくなかったが、最早手段を選ぶ余裕など残されていない。まるで触手に絡め取られているような感触を、セシルが魔法で吹き飛ばそうとした瞬間。駆け寄った男がセシルの髪を掴んで顔を上げさせた。 『絶対に抵抗しないで!』  間一髪の差で目を覗き込んで叫ばれた追い打ちにセシルの力が霧散していく。それでも放たれようとした魔力は突風を巻き起こし、周囲の木々を揺らしていた。  自分以外の人外の力を使える存在の反抗に、男の顔から血の気が引いていく。男は咄嗟にまだ自由に動けないセシルの首を締め上げた。 「がっ……は……!?」 「結局……結局セシル君は僕のこと好きでも何でもないのに優しくしてくれたんだね。それって良いことだけどさぁ、凄く残酷なことでもあるって分かってるのかな?」  セシルも腕へと爪を立てるが、男の力は決して弱まることはない。男とセシルの体格差もあるが、ここで抑え込めなければ自分の方が終わってしまうと、男は無意識的に確信していたからこそ、必死で腕に力を込めた。  酸素が供給されずセシルの意識が遠のき、二人の間の力の均衡が崩れていく。弱まった鼓動に慌てて手を放すと、セシルは地面へ突っ伏し激しく咳き込んだ。 「危なかった……。今セシル君何しようとしてた? 抵抗してきた子なんて初めてだよ。でも嬉しいなぁ。そうだよね簡単に手に入ったら興ざめだもんね」 「……アナタは一体何者ですか? 何故こんなことを?」  最早起き上がることも出来ず、やや赤みが残る頬を床に付けながら、セシルは僅かでも情報を得ようと試みていた。こんな危機的状況でもセシルは諦めていない。  隙を突かれたとはいえ、これほど恐ろしい力を持った男が大切な人々がいる場所の傍に存在しているという事実。それがセシルには何より恐ろしく、耐え難かった。 「いい加減にしろよ! 君って本当に酷いよ……」  だがセシルの態度が男は気に入らなかったらしい。間近で叫ばれたことで唾液がセシルの顔へ跳び散る。  男は鼻を啜りながらセシルを抱き起こした。 「あの時、セシル君が僕に希望をくれてから、本当にずっと見てたんだよ。君のこと本当に優しくてファン思いでいい子だと思ってたのにさぁ、あんな可愛い彼女がいて乳繰り合ってましたなんてちょっとあんまりだよね。アイドルなんて幻想を売る職業な訳じゃん。なのにあんな風に僕の前で当てつけみたいに……」 「いつハルカのことを……!?」 「でももうどうでもいいんだ。セシル君が彼女持ちアイドルやるなら、僕だってセシル君のことをアイドルでも何でもない僕だけのお姫さまにしてあげるからね」  男はセシルの目を手で覆い隠し、寒気がするほど優しく囁いた。 『おやすみ』
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