Sweet Holiday
それは二人で暮らし始めてから一か月目のことだった。
「あっ……」
「どうしました? ハルカ」
「セシルさん……」
振り返った春歌の手には空になった牛乳パックが握られていた。それを見たセシルはああと頷いた。牛乳のストックが切れたのだ。
「構いませんよ。寧ろ気遣ってくれてありがとうございます」
冷やされていた麦茶を二人分のコップに注ぎながらセシルは優しく声をかけた。だが、それに春歌はより一層恐縮して俯く。セシルが毎朝牛乳を飲み干すのをルーティンの一環にしていることを誰より春歌は理解していた。食材の買い足しは基本的に春歌の役割で、だからこそ初めてのミスに彼女が少なからず動揺するのも仕方のないことだった。
「本当にすみません。直ぐに買ってきますね」
「それならわたしも付いて行きます。ついでですから、一緒に夕食の食材も買いましょう」
今日はオフですし荷物持ちくらいなら出来ますから、とセシルは立ち上がり上着を羽織った。春歌も慌てて財布を持つとセシルの隣へ駆け寄った。
「いけません。わたしの間違いなのにセシルさんまで付き合わせてしまって」
言いながら再び俯く彼女は、躰を小さく縮めている。今日はオフの自分を振り回してしまっていることにも優しい彼女は自責の念を感じているのだろう。セシルは春歌の頬に手を当てると、そのまま瞳を覗き込んだ。
「アナタと少しでも一緒に居たいのです……ダメですか?」
「……そんなの、反則です」
耳まで赤くなって頷く彼女に、セシルは穏やかな微笑みで答えた。
「えっと、今日はクリームシチューを作りたくって」
「fantastic! きっととても美味しいです」
「はい。朝の牛乳が無かったので夜は牛乳尽くしです!」
買い物メモを見ながら二人は弾けるように笑った。歩いて十数分のスーパーにはセシルは中々行く機会も無く、物珍しそうに辺りを見渡している。それなりの大きさの店内で、はぐれないように二人は自然と手を繋いでいた。まだ午前中で人も少ないからこそ出来る行為にどちらともなく鼓動が高まる。
「セ、セシルさん! ジャガイモが安いみたいですよ」
「それは素敵です。シチューに入っているジャガイモ、ワタシとても好きです」
何気ない会話をしながら野菜売り場で身を寄せあう男女は非常に初々しく、それを見ていた店員は空気の甘さに顔を顰めた。ジャガイモ、ニンジン、グリンピース、小麦粉、チーズ、そして何より大切な牛乳。次々と材料を籠に入れていく中で、セシルの様子に春歌は違和感を覚えていった。そしてそれは鶏肉を買おうと精肉売り場に移動している途中で、頂点に達した。
「どうしちゃったんですか? セシルさん」
「何が、ですかッ?」
セシルの様子がおかしいのは明らかだった。春歌の手を握るセシルの手はじっとりと汗ばみ、少し痛いほど力が込められている。顔色も悪く浮かべられる笑みも引き攣っていた。
「ヒイッ!? 大丈夫、大丈夫です……My princess。ワタシは大丈夫……」
「あっ……」
セシルの目線が床へと向いた時、春歌は原因に気が付いた。このスーパーは構造上どうしても精肉売り場に行く前に、鮮魚売り場を通らなくてはならない。周囲には無数の魚の目が春歌達を睨んでいるのだった。春歌が立ち止まったのをいいことにセシルは思わず目を閉じた。未だに情けないと思ってしまうが、どうしてもセシルは死んだ魚の目がどうにも好きになれない。よりにもよって恋人の前でこんな醜態を晒していることに彼の頬は赤くなったり、恐怖で白んだりを繰り返していた。
「セシルさんは大丈夫ですよ。そのままわたしに付いてきてくださいね」
春歌の声がしたかと思うと、そろそろと躰が進み始める。優しい手が目を閉じたままのセシルをそっと導いているのが感じられた。
「あのっ、ハルカ……」
「もう少しです。ほら、目を開けて下さい」
目を開くともうそこは精肉売り場だった。春歌はそのまま鶏肉を満足げに籠にしまっている。
「本当にすみません……」
「いえ、わたしもあまり褒められた人じゃないです。あの、わたし、セシルさんが頼ってくれて嬉しかったんです……」
普段なかなか頼ってくれないから、と春歌は頬を紅潮させた。セシルを若干の悔しさとそれを大きく上回る安堵が包み込んでいく。
「……そんなのハンソクです」
「ふふっ、今朝と逆ですね」
下からセシルの顔を覗き込み、春歌は穏やかに微笑む。いっぱいの籠を半分ずつ持って、恋人達の午前は穏やかに過ぎていくのだった。
人生で最初に書いたセシ春でした。
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