並行世界と冬が終わる日

Prologue

「ワタシの家まで来てください。これから一緒に暮らしましょう」  切り出された話題に、わたしの頭は真っ白になってしまった。咄嗟にした返事は、やけに大きな声になってしまって、セシルさんが驚いているのが分かった。  九月になっても夜にはまだ濃厚な熱さが残っている。薄手のワンピースにショールを羽織った春歌は、汗を拭いながら夜の町を歩いていた。  久々に夕食を、セシルから春歌がそう誘われたのは三日前のことだ。真夏のイベントや仕事に追われて、恋人らしく過ごす時間も取れずにいた中で、その誘いは春歌にとってとても嬉しいものだった。 「このバーから裏路地に入って、三つ目の角を左に曲がって……」  事前に渡されたメモを見ながら、春歌は少しずつ静かな道へと導かれていく。人通りも殆どない道の先に、小さな明かりが灯っていた。繊細な装飾が施されているその建物は、建造物と言うよりも砂糖細工のようで、現実味が感じられない。 「本当にここでいいのかな? ……看板もないし」  メモを見ながら道順を思い返しても間違ってはいないと思われるが、春歌は自分の方向感覚をあまり信じられないでいた。建物の前を二、三度行き来していると、耳慣れた声が彼女に届いた。 「お待たせしてすみません」 「セシルさん。今日は夕食に誘ってくれてありがとうございます」 「ワタシの方こそ、急に誘ってしまって。送って行けたなら良かったのですが、ギリギリまで仕事があって」 「いいんです。道案内のメモまでありがとうございました。とても分かりやすかったです」 「それは良かったです。さぁ、入りましょう」  頷いた春歌を見て、セシルは変装用の眼鏡の下で目を細めた。そのまま彼女の手を取ると、セシルはドアを静かに押す。セシルに続いて春歌も建物へと足を踏み入れた。  店内にはランプが幾つか灯り、薄明かりに包まれている。外装と同じような装飾が施された洋室はしんと静まりかえっていた。ひんやりとした空気が辺りを包んでいる。  数分もしないうちに黒髪を撫でつけたウェイターが現れ、セシルと春歌を奥へと案内した。長い廊下を通り、二人は古い絵画の飾られた個室へと通された。中央には真っ白なクロスが敷かれたテーブルが一つ置かれている。ウェイターは椅子を引いて二人を座らせると、深々と頭を下げて部屋を出た。 「すごいです……。わたしこんなところ初めてで」  椅子の柔らかなクッションの感触を確かめながら、春歌は感嘆して息を吐いた。 「この部屋にはワタシ達しかいません。そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」  眼鏡をケースにしまいながら、セシルはそっと微笑む。 「は、はい……」 「それに、このお店の料理はゼッピンです。レンが教えてくれたお店なんですよ」 「神宮寺さんが? それなら間違いないですね」 「ええ。きっとアナタも気に入るでしょう」  そうやって仲の良い同期達の近況や会えなかった間の話をしているうちに、春歌の表情は柔らかく変化していった。彼女の緊張が完全に解れてきた頃に、料理が運ばれてきた。 「わぁ、冷製ポタージュですね。……美味しい」 「枝豆のポタージュなんて初めて食べました。少しセパ・ゼルデに似ています」 「わたしも思いました。枝豆は今が旬ですし、家でも作ってみたいです。出来たらお裾分けしてもいいですか?」  セシルは一瞬目を見開くと、すぐに頷いた。 「もちろんです。アナタの料理もとても美味しいから楽しみ」  次に運ばれてきたのは小さな器に盛られた夏野菜のラタトュイユだった。煮込まれた茄子を囓ると柔らかな甘みが広がる。 「やはり旬のものは美味しいです」 「そうですね! 下処理もあるのでしょうけど、やっぱり素材が違うんだろうなって」 「ええ。夏の恵まれた日差しがあればこそ……。そういえば、今年の夏も楽しかったですね」  セシルがそう言うと、春歌は即座に顔を上げた。 「はい! セシルさんのお仕事、どれもすごく良かったです。夏フェスに出演された時の映像見ましたけど本当に格好よくて行けなかったのが悔しかったですし、CMも評判良いですよね。そこだけ録画して何度も見直しています。それから……」  矢継ぎ早に語られる感想にセシルは思わず口元が緩んでいくのを感じた。春歌はそれに気づかず、うっとりと目を閉じて語り続けている。春歌の息がようやく途切れた時に、セシルは片手で顔を覆ったまま呟いた。 「よく覚えていますね……、すごいです」 「だってセシルさんの活躍ですから」 「本当にありがとうございます。ワタシは恵まれていますね」  その時、目を開けた春歌はセシルの様子に気づいた。緑の目が抑えきれない感情と共に春歌をはっきりと映している。それだけで彼女の脳裏に渦巻いていた言葉は吹き飛んでしまう。絡む視線は何よりも雄弁だった。二人は頬を紅潮させたまま、残りのラタトュイユを口に運んだ。 「それから、今年の夏は久しぶりに曲作りが一緒に出来て嬉しかったです」 「それはワタシも同じです! 良いアルバムになるといいですね」 「きっと素敵なアルバムになります。冬の発売が今から楽しみですね」  セシルは強く頷いた。十二月にはセシルのソロアルバムの発売が決定している。シャイニング事務所の同期達が連続でソロアルバムをリリースする企画で、セシルはその締めくくりを飾っていた。発売はまだ先の話とはいえ、平行する仕事も多い中でセシルと春歌はその編集や収録される新曲の準備を夏の間中進めていた。 「収録も無事に終わって良かったです。セシルさんの新しい側面が見えた気がしました」 「星がきらめくような美しい曲だったからこそです。本当に楽しい収録でした」 「発売が待ち遠しいです。ファンの皆さんが喜んでくれるといいな……」  夢中になって二人が話していると、メインディッシュの肉料理が運ばれてきた。チキンとトマトの煮込み料理だ。柔らかく煮込まれた肉は、フォークで突き刺すだけでもほろほろと崩れていく。春歌はそれをせっせと口へ運んだ。 「そういえば、冬の新企画の発表は明日でしたよね」 「ええ。今年は何をするのでしょう。そういえば……、明日の会議にはハルカも呼ばれていると聞きました」 「そうなんです! わたしも参加出来て嬉しいです」 「ハルカが来るなら皆で歌う新曲でしょうか? 誰かと歌うのは久しぶりです」 「担当するのはBGMかもしれないですし、どうでしょう。でも出来れば新曲が書きたいです。冬に向けて皆さん忙しくなるでしょうし、概要を聞いたら急いで動かないと……!」 「去年も冬の準備は大変でしたね。これからますます忙しくなりますから、体調管理に気をつけなくては」 「番組にライブに、それから企画に……、繁忙期ですね。やりがいがあります」  両手をぐっと握った春歌を見て、セシルは思わず笑顔を見せた。描かれた未来図に怯えるのではなく、希望を持つ彼女の姿がセシルには好ましく映った。目を瞬かせて首を傾げる春歌にセシルが謝っていると、次の料理が運ばれてきた。  どの料理も夢のように美味で、新しい物が運ばれてくる度に話題も移り変わった。試写会に呼ばれたおかげで一緒に見ることが出来た映画の話、セシルが絶叫マシンに初めて乗ったバラエティの話、春歌が駅で見つけたセシルの出演している広告の話――話題は尽きることがなかった。 「セシルさん、次はケーキですよ。もうデザートなんですね」 「ええ、この料理で最後でしょう」  運ばれてきたケーキと紅茶を見て、二人は嬉しさと僅かな寂しさを滲ませる。皿に乗ったクリームケーキの愛らしさがよりそれを助長していた。小さなケーキを少しずつ食べ進めながら、セシルも春歌もこの時間が終わらないようにと願っていた。 「……美味しかった。ごちそうさまでした」  空になった皿が下げられていく間、セシルは何か考え込んでいるかのように視線を彷徨わせていた。 「お会計、半分出しますね。幾らでしたか?」 「ハルカ」 「どうしました?」  バッグを持ったままの春歌からセシルは視線を逸らさなかった。 「ワタシの家に来てくれませんか?」 「これからですか? もちろんです! セシルさんの部屋に遊びに行くのも久しぶりですね」 「えっ……ああ、それは是非来てください。ですが、ワタシが言っているのはそういうことではありません」 「……? ではどういう……」  セシルは手を伸ばすと、春歌の両手を強く握りしめた。春歌は戸惑うように目を瞬かせていたが、セシルは一度深呼吸をすると言葉を続けていく。 「ワタシの家まで来てください。これから一緒に暮らしましょう」  その言葉を聞いた瞬間、春歌は目を見開いたまま動かなくなった。彼女の頬は見る間に紅潮していく。その瞳には激しい動揺と、それと同じくらいの歓喜が表れているようにセシルには見えた。春歌はその時、自分とセシルが同じ部屋で暮らしていく幻想が溢れるのを必死に抑えた。きっとそんな時間はどれだけの幸福で満ちているだろう。春歌もセシルの手を握り返した。  部屋に流れた沈黙は僅か数秒だったが、二人にとっては無限に近いほど長く感じられた。 「……ごめんなさい」 「……え?」  セシルは二、三度瞬きすると目を見開いたまま春歌を見つめていた。春歌も全く同じようにセシルを見つめた。反響した声がまだ部屋に響いているようだった。  春歌ははっと息を呑むと、伝票を見て財布から一人分の金額を出してテーブルに置いた。 「あのっ、ハルカ」 「本当にごめんなさい。わたし、わたしが……」  春歌は深く頭を下げると、レストランから走り出てしまった。その尋常ではない様子にセシルは彼女を呼び止めることが出来なかった。 「困らせるつもりはなかったのに。何故……」  セシルは空いた椅子に座り込むと、深くため息を吐いた。きっと頷いてくれるはずだと彼は無邪気に信じていた。空いてしまった目の前の椅子をセシルはそっと撫でる。そこにはまだ彼女のぬくもりが残っていた。  レストランから出た春歌はそのまま走り続け、大通りまで戻ったところでようやく足を止めた。外の熱気に当てられて額からは汗が伝い落ちる。見る間に視界が滲み、春歌は両手で顔を覆った。 「どうしよう……。なんであんなこと言っちゃったんだろう……」  嬉しかった、幸せだった。だが、咄嗟に出てきた一言はその感情とは異なるものだった。それはセシルだけではなく、彼女自身をも驚かせた。  以前は寮の部屋は隣で、二人はほぼ同居のような関係を続けていた。だが、マスターコースで住む場所に距離が生じたのを皮切りに、それから二人が同じ屋根の下で暮らすことはなくなった。数年前に事務所の寮を離れることになった際にも一緒に暮らすことは話題に出ていたのだが、正式にデビューしたことでセシルも春歌も一度に仕事が増え、それに追われているうちにそれぞれ違う町に身を落ち着けてしまったのだった。 「とにかく今日は帰ろう……」  そう呟くと、春歌は目元を拭って駅までの道を歩き始めた。  共に暮らすという選択肢が示された時、春歌の心には歓喜に近い喜びがあった。しかし、それと同じくらいの不安が彼女の心を支配したのは紛れもない事実だった。ほぼ同居のような暮らしをしていたことがあっても、あの時とはセシルと春歌を取り巻く状況は大きく変化している。それぞれの仕事の量も、向けられる視線の数も、比べものにならないほど増えた。万が一とはいえ世間にバレてしまう可能性や、これから決定的に変わってしまう暮らしへの不安、それらが愛する人と共に暮らす喜びを上回ってしまった。  電車に乗り込んだ春歌が携帯を見ると、セシルから今日のお礼と謝罪のメッセージが入っているのが見えた。春歌は慌ててメッセージアプリを開くとセシルへ謝罪の言葉を送った。それでも彼女の気持ちが晴れることはなかった。あのレストランで、もっと違った言い方をすれば良かった。素直に戸惑いと喜びを伝えれば良かった。いくら動揺していたとはいえどうしてあんなことを、そんな後悔が春歌の心に渦巻き続ける。 「明日会う時も、セシルさんにちゃんと謝らなきゃ……」  春歌は深く息を吐くと、窓の外へと視線を向けた。周囲が暗闇に包まれている中で、遠くに見える街だけが煌々と辺りを照らしていた。 中略

もしもあなたと暮らしたら

 住宅街を少し進めば春歌の住むマンションに着く。セシルも何度も来ているので、特に迷うことなく部屋まで辿り着いた。春歌は素早く鍵を開けて、セシルを先に中へと入れた。  中に入って鍵を掛けていると全身を温かい感触が包んだ。 「おかえりなさい。ハルカ、ワタシの愛しい人」 「セシルさん……っ⁉」  玄関に荷物を置いたセシルが春歌を背後から抱きしめている。セシルが笑う度に、春歌の後頭部に息がかかった。 「せっかく先に入ったのです。アナタを出迎えたくて」 「あ、ありがとうございます……」 「違いますよ。ただいま、でしょう?」 「……ただいま」  春歌の返事にセシルは満足げに笑うと、彼女の髪にキスをした。 「くすぐったいです」 「すみません、つい」  春歌は赤くなった自分の顔を見られたくなくて俯いていたが、セシルからは髪の隙間から染まった耳が見えていた。このまま離したくなかったが、玄関にいても寒いのでセシルはゆっくりと春歌から離れた。 「食材を冷蔵庫に入れてきますね」  セシルは置いていた鞄を抱えると、キッチンへと向かっていった。春歌はまだその場から動けずにいた。セシルを家に招いた時に戯れでおかえりと言われることは何度かあったが、今このタイミングでそれをされると大いに揺らいでしまう。熱い頬に冷えた手を当てて冷ますと、春歌は慌ててコートを掛けてキッチンへと向かった。

2024年の春恋発行予定の新刊サンプルです。
Anotherworldの企画に立ち向かいながらセシ春が同居について考える話です。

メッセージは文字まで、同一IPアドレスからの送信は一日回まで