月影の微笑
高貴なあの方にはいつも柔和な微笑みが浮かんでいた。その微笑みは民に謁見する公の場でも、将来の為の学びの中でも、心ない私達の視線が突き刺さる瞬間にも、一切絶やされることはなかった。あの時の私はそれを国家元首の一族、神の祝福を受けた存在として当然のことだとことだと思っていたし、それは当の本人も同じように思っていることは容易に見てとれた。
そんな醜い認識から解き放たれたのは、もう数年前のことだ。
召使いの一人として宮殿に勤めていた私は、皇子の身の回りを整えることが仕事だった。風が運ぶ砂を取り除き、水瓶を汲みたての冷水で常に満たし、私が一生働いても買えない上質な衣服を管理する。仕事仲間は大勢いたし、皇子は特権階級によくいる唐突な無茶を言うタイプの人間ではなかったので仕事はかなり楽だった。唯一の不満をあげるなら、皇子を取り巻く人間達の空気だ。あの方に混じる異国の血を人々は口には出さずとも冷たく見ていたし、幼かった私もそんな大人達の影響を受け皇子と積極的な関わりを持とうとはしなかった。私と皇子は年が近かったこともあり、あの方からの視線を時折感じることがあった。それでも私は私はそれに気付かないふりをして友達との遊びや仕事に集中し続けた。その事実に伴う居心地の悪さをどうしても拭いきれずにいたが、年を経るごとにそんな視線を感じる機会も少なくなり、結局私は顔に薄っぺらな敬意を貼り付けて側に控え続けていた。
それでも当の皇子は幼い年齢を感じさせない落ち着きを見せ、あの穏やかな微笑みを常に湛えて過ごしていた。あの方の唇に笑みが浮かばなかった瞬間を見たのは一度だけだ。
その日は眠るのが勿体なく感じるほど美しい満月で、私は宮殿で空を眺めて過ごしていた。本当はもう家に戻っても良かったが、少しでも空に近い場所で月を見たくて私は殆ど誰もいない宮殿を上階へと向けて歩き続けた。眠っている人々を起こさないようになるべく足音を立てずに階段を上っていると、微かな歌声が聞こえてきた。
私が思わず足を止めると、少し先の窓辺に皇子が腰掛けているのが見えた。この階段の先には物置があるばかりだから殆ど誰も近寄らない筈なので、皇子のような方がいらっしゃるのに私は少なからず驚いた。その人気のなさ故に皇子がそこでよく過ごしていたことを当時の私は知らなかった。
だがそれ以上に私を驚かせたのは、皇子の歌声が普段とは違うことだった。あの方の歌声自体は儀式の際によく聴いている。しかし今私が聴いているのは神に捧げる為の歌ではなく、あの方がご自身の慰めに紡いでいる歌だ。そこに込められている想いは全く違っていた。深い孤独、寂しさ、恋しさ、決意、歌詞のない歌であるのに、それは私の胸に迫って止まらなかった。思わず耳を塞ぎたくなって、それでも心が惹き付けられる。
そっと御姿に視線を向けると、皇子は私に気付かず月を眺めていらっしゃるようだった。私達国民に見せる皇子としてのものではなく、ただ愛を求める少年としての御姿がそこにはあった。
あんな悲しい表情を見たのは初めてだった。いいや、私は知っていたのだ。ただ見ない振りをしてきただけなのだ。ただ立ち尽くすことしか出来なくなっていた私に、皇子は漸くお気づきになったようだった。
「……どうした? 今日はもう遅いのだから、あまり残ってはいけない」
途端に歌は止み、あの方はいつもの柔和は微笑みを浮かべて私を見た。その御姿に先程までの面影はなく、ただ理想的な皇子としての振る舞いがあった。もう決して乗り越えることが出来ない壁がここにはあるのだと感じた。
「申し訳ございません、スータセシル」
震えそうになる声を必死に抑えて、私は出来る限り早くその場を離れた。非力な私でもお力になりたい、そう願うのにはあまりに遅すぎた。周囲の目に対する恐ろしさや失った可能性を反芻して罪深さに慄く。皇子は愛を求めながらも孤独を選んでいた。選ばせたのは私達だ。だがそれを後悔したところで、私はもうあの方から慈しみ以外何も受け取れなくなっているのだった。
それから数年が経ち、皇子は行方不明になった。国を挙げた捜索がなされて遠い異国で発見されたあの方は、神の祝福を受けた少女を連れて戻られた。何故御姿を消されたのか、何があったのか、様々な憶測が飛び交ったが、山のような祝い事の準備に追われて深く考える者はいなかった。
宴会にパレード、儀式と国が揺れんばかりの騒ぎが何日も続く中で、また満月の日が巡ってきた。後始末の為、宮殿に残っていた私は月光に導かれるようにして上階へと足を進めていた。あの日以来月を眺めることもしなくなっていたのだが、そんなことも気にならなくなるほど美しい月だった。もう大方の仕事は終わっていたこともあって、階段に辿り着くまでも、階段を上っている間も他の召使い達に会うことはなかった。
そしてまた、階段に歌声が響いた。まるであの日が蘇ったような状況の中で、過去との違いが私には明確に分かった。自身の為に切々と歌い上げる悲しい響きは立ち消え、弾むような喜びに満ちた声が空間を震わせる。歌が途切れたかと思えば、私の知らない異国の言葉の囁きと笑い声が聞こえてくる。
囁き合う御二方が誰なのかはすぐに分かったが、私は到底信じられなかった。早足で階段を上ると、やはり皇子が窓辺に腰掛けていた。月光に照らされる御姿はあの日のままだったが、隣には異国の少女が寄り添っている。皇子に浮かんでいる表情もまるで違っていた。私はあの方の微笑みを数え切れないほど見ていたのに、あのように年相応の安心しきった笑い方が出来ることを知らなかった。
少女が夢中になって手元の紙に何か書き込んでいるのを、皇子は静かに覗き込んでいる。筆の動きからあれは楽譜だと気付いた。何か囁き合った後、皇子は再び歌い始めた。
神秘的な旋律にのせて皇子は深い想いを吐露していた。改めて聴くとはっきりと理解出来る。心の高揚、喜び、切なさ――そこに歌われているのは愛そのものだった。月光を照り返す美しい緑の瞳にはただ一人が映っている。私は御二方に気付かれないうちに踵を返した。私はあの場所に行く資格を持っていない。遠い昔にその資格を自ら失ったのだから。
それでも深い安堵が私の胸を満たしていくのを感じていた。あの方は異国で私達が与えられなかったものをご自身で見つけられたのだ。きっともう二度と皇子が孤独を抱えることはない。私がそれに安堵することが如何に身勝手なものか、誰よりも理解しているつもりだ。それでも私は、あの二人の道程に幸福が降り注ぐことを祈らずにはいられなかった。
月が何よりも美しい夜、耳にした旋律を私は未だ忘れられずにいる。
リピラブ大恋愛ルート後の話。
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