幸福な一日の終わりに
今日は本当に良い日。人生は長いのだからそう思える時もきっとある。今日の休日が正にそんな日で、掃除も洗濯もちゃんと出来たし、買い物に行ったらお肉を少しオマケしてもらうし、息抜きがてらに作っている趣味としての作曲にもいつも以上に集中出来た。作業にちょうど区切りが付いて、考えた内容を譜面にまとめあげた時、玄関から声がした。
「ただいま帰りました……」
「お帰りなさい。お疲れ様でした」
本当に今日はなんて良い日なんだろう。わたしは仕事に集中しすぎる時があるから、一緒に暮らしている大好きな人が帰ってきても迎えられないことはしょっちゅうある。なのに今日はちゃんと聞き取れた。もう嬉しくて仕方なくて、わたしは少し歌い出したいような気分で玄関に向かった。
いつもなら優しい笑顔で答えてくれるセシルさんは、背中を丸めて座り込んでいた。具合でも悪いのかと思って駆け寄っても反応はない。
「セシルさん……?」
わたしが呼び掛けると漸く微かな呻き声が返ってきた。大丈夫ですか、どこか痛いですか、と問いかける度にセシルさんは首を振った。外から帰ってきた彼の体はとても冷えていて、わたしはおろおろとして背中を擦ったりしていた。
「ごめんなさい、心配をかけて。……もう大丈夫」
そう言いながら立ち上がるセシルさんはやっぱりどこか元気がないように見えた。セシルさんがコートを掛けている間に、わたしは祈るような気持ちでいつもより少しだけ良い葉でお茶を淹れた。居間に戻ったセシルさんはカップから漂う匂いが違うことに気付いたのか、二三度深く息を吐くと半分ほど一気に飲み干した。わたしはその間、椅子に座ってその様子を眺めていた。
「何があったのか聞かないのですね」
「ええ。今はまだその時ではない気がします」
わたしの答えを聞いて、セシルさんの強ばっていた表情が少し緩んだ。もう一度深く息を吐くと、セシルさんは窓の方へ視線を向ける。外にはちょうど月が出ていて、星が幾つか瞬き始めていた。
「ありがとうございます……。すみません、今日はアナタの耳に入れたくないことばかり起こっていて」
わたしが黙って頷くと、セシルさんはカップを手にしたまま言葉を続けた。
「さっきのワタシはアナタに甘え過ぎました。それでもアナタはワタシを心配してくれて、無理に話そうともしなかった。……アナタはいつも優しい」
「そんな、ただ当たり前のことです」
「はい。でもそれが出来る人はアナタが考えている以上に少ないのです」
セシルさんは今度は少しずつ残ったお茶を飲んでいた。カップが空になったので、おかわりを勧めたけど、セシルさんは笑って首を振る。
「それよりアナタのピアノが聞きたい。今日は少し大変な一日でしたが、それだけでとても良い日だったと思えますから」
「喜んで……!」
やっぱり今日は良い日だった。さっきまで作っていたのはリクエストにぴったりのピアノソナタだったのだから。二人で手を繋いでピアノのある部屋まで歩きながらわたしはしみじみと考えた。もう譜面はすっかり頭に入っている。あとはセシルさんが望む音を紡ぎ出すだけだった。
イベント終了後の開放感のままに書いた話。
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